ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

DULL-COLORED POP『アンチフィクション』(シアター風姿花伝、7月25日マチネ、配信=7月26日マチネ)

ダルカラことDULL-COLORED POP『アンチフィクション』(谷賢一脚本・演出・主演)を見ました。
主宰の谷賢一さんの一人芝居です。コロナウイルス防疫対策のための謹慎中断後はじめての観劇でした。防疫対策もばっちりでした。現代思想別役実特集に書くにあたってなかなか書き進まずに苦しかった時期でもあって、さまざまに啓発されました。
上演情報はこちら。

www.dcpop.org

コロナウイルス防疫対策下の謹慎で書けなくなってしまった主人公の劇作家の挙動には、谷賢一さん自身の実体験が反映されています。なんとか何かを書こうとアイディアを絞り出しても、つい先行作品が思い浮かんでしまう。しかもそれがアクチュアルな魅力をもつものにはとうてい感じられない。演劇仲間と遠隔会議アプリを使って呑み会をしても、前向きな発想がさっぱり出てこない。劇場がいつ再開されるか見通しの立たないなかでは創作意欲が湧いてこないので、とうとう劇作家は飲酒して変性意識を作りだして深夜の執筆に乗り出そうとする。ますます筆はすすまず、ついに身体をこわして妻に呆れられる。演劇仲間と借りているわるい隠れ家「悪魔城」に行くと、そこにはいけないおクスリの売人がいて、勧められるままに手を出してしまう。そして劇作家が見た幻覚とは。

音楽や薬物に頼って変性意識を作り出そうとする「書けない作家」「変性意識に頼る作家」のイマージュの本歌取りが巧みです。ベートーヴェン《クロイツェル・ソナタ》をかけてシーリアスな19世紀的文豪の気分になろうとしても果たせない。「(超夜型で呑まないとやってられないけれど呑んでもやっぱり書けない劇作家の)私の一日」をワイドショーふうのフリップ付きで紹介する紹介する場面では抒情的な気分になってショパン夜想曲》作品9–2をかける。果実酒錬成用のハードリカーを喉にぐいぐい流し込みながらドビュッシー《月の光》を聴く。お酒を呑んでどんどんだめにんげんになる段階で太宰治らへのアリュジョンも出ます。これまでのDULL–COLORED POPの舞台の劇伴では、豪奢でぎらぎらした富と野望の夢を語る場面でしばしば往年のアメリカン・ジャズのスタンダードナンバーが用いられてきたことを思い起こせば、とうとう妻に粗相がばれて「俺はうんこたれだ。3歳の息子とお揃いだ」と大人用紙オムツをはいて《Fly me to the Moon》を歌う場面にもしみじみと哀感が加わります。

シェアハウス「悪魔城」(江古田駅徒歩25分・築40年)であぶないオクスリをのむ主人公。文士の飲む幻覚剤文学への言及でもあります。たしかに江古田駅から徒歩25分圏内に現在でも畑の見える地域はそれなりに存在しますが、むしろまだ現在のように開発されていない時代の池袋西郊と江戸川乱歩を想起させます。

お酒ではもはや効かなくなって、売人に勧められるままにいけないおクスリを呑んだあとには、《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ》のジャケット写真風の劇作家ジャンボリー壁紙が背景幕に投影されます。劇作家のパンテオンのなかに古代ギリシアの劇作家の彫像やシェイクスピアの肖像から平田オリザ野田秀樹三島由紀夫寺山修司別役実らが終結している図柄がやがてモーフィングしてゆくまでがじつに巧みです。「日常には因果律なんてないんだ!」「賞を取ったけれど、あれは被災地への同情でもらった賞だ!俺の実力じゃない!一度終わらせたゲームをもう一度はじめからやっているような気分だ!これから何をやっていったらいいんだろう!」というなまなましい台詞が耳に飛びこんできて胸を抉られます。そのヴィジョンがなければ書けない台詞です。

ユニコーンの登場する場面はヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』の「バルラアムとヨサファトの物語」に忠実に沿っています。書き手が死ぬまで追いかけてくるユニコーンが出てきます。幻覚のなかで作家が見たユニコーン中原中也の詩を吟じるうちにだんだん「バルラアムとヨサファトの物語」のユニコーンのことばを語りはじめて、主人公も「バルラアムとヨサファトの物語」そのままに井戸に落ちてけんめいに蔓草にぶらさがりつつ落ちてきた甘露をなめる。幻覚を描写する台詞で強い象徴的な効果をもった古典の引証にモーフィングしてゆくところは演劇ならでは。別役実作品にでてくる物語の本歌取りや古典の引証風の批評的精神も感じられます。「日常には因果律なんてないんだ!」と主人公が荒れる台詞もあるところ、別役筋の喜劇性の継承をみる思いでもあります。演劇はいいなあ、日本語現代詩歌はそのデウス・エクス・マキナを自ら手放してしまったよね、と思ってしまいました。幻覚を見た主人公はそれでも生きてゆこう、となんとか立ち直ろうとする。きっとまたハードリカーをぐいぐい呑むのだと思いますが、なんとか立ち直ろうとする。希望のあるエンディングです。

作為的に話をつくらなくても生活とキャラクターがどんどん虚実のあわいへ向かって転がってゆく、そのときそのときの気持ちは本物。「アンチフィクション」のゆえんでもあるでしょう。
制作にむけてはげまされるものがありました。ありがとうございます。次作を楽しみにしています。