ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

マーティン・スコセッシ《沈黙》を見に行きました

もう一ヶ月以上前のことになりますが、マーティン・スコセッシ《沈黙》を見に行きました。
遠藤周作の原作に対する深い理解と、モデルとなったジュゼッペ・キアラ神父(作中ではロドリゴ神父)とクリストヴァン・フェレイラ神父の棄教と日本での余生をめぐる確かな考証にもとづく解釈がもたらした傑作です。キリシタン史考証・監修にはレンゾ・デ・ルカ神父(長崎・日本二十六聖人記念館館長)が、日本語版字幕監修には川村信三神父があたっています。
ロケ地は台北周辺と太秦撮影所とのこと。台湾の映画産業の隆盛を思います。長崎の風光とはまた異なる亜熱帯のダイナミックな植生がむせるような湿度と温度を感じさせない彩度を抑えた映像で撮影されており、超絶技巧の写実描写で描かれた山水図のような趣をかもしだします。お白州はもちろん、江戸のキリシタン屋敷などの室内場面の映像と照明には歌舞伎の舞台のような様式美と清潔感があります。日本の伝統演劇と映画へのオマージュもふんだんに盛り込まれたカメラワークと、自然音を生かして可能な限り音量を絞った寡黙な音楽も印象的です。現代曲(日本のカトリック界を代表するシーリアス・ミュージックの作曲家となった細川俊夫の作品を起用)、自然音、聖歌やオラショ、祭囃子の使い方にも節度があります。自然音だけで聴かせるエンドロールは最後までご覧になることをおすすめします。
このクールな映像と音楽・音響には、遠藤周作作品の日本語に滲む、母の愛を乞うて乞うて乞い果ててときに暗い湿った部屋の片隅で膝をかかえてどうか突き放さないでくれるなと途方にくれてすねてみせる男児の涙のような湿度を捨象する効果もあります。徹底したリアリズムによる残虐場面の描写もなまなましくなりすぎません。映像と音楽の力でいやがうえにも節操なく観る者のヒロイックな感情を高揚させることも可能なテーマですが、その手には《沈黙》チームは乗らないのです。みごとな節度です。
なにしろ、英語に翻訳されたENDOHの世界です。湿って暗い部屋の片隅のような世界の果てで、涙が涸れるまで見棄てられたこどものように泣いて乞うても得られない「神の母性」の物語というよりも、魂の暗夜の時代に生きる人間の弱さとうらはらなしたたかさを見つめる雄渾なドラマがくっきりと切り取られています。現代のポスト世俗化社会の宗教と政治にも通じる諸問題を17世紀の宗教の危機を通して描いた作品になっています。



生涯不犯を誓い、自らの文化の優位と信仰を疑うことなく辺境の地に彼らの信じる「存在」の真理と希望と愛を説くカトリック宣教師の傲岸不遜。世俗の喜びを大肯定する風土に生きる日本の仏教徒のかたくなな誇り高さと武家の宗教に連なる自恃。両者は決して互いに譲らず、相互理解に踏み出す愛と勇気を示すこともなく、ときに相見えれば未知の脅威に対する無限の残酷さをむきだしにします。棄教してなお日本を「超越的な神の存在を知ろうとしない、自らの身近なものにひきつけて目にみえるものしか信じようとしない、すべてを根腐れさせる沼」と呼んではばからないフェレイラ神父の率直さと、この残酷さは表裏一体のものです。
武士の気まぐれで首をはねられる潜伏キリシタン。正義の美名に覆われた嗜虐趣味のあらわれにも見える処刑方法。辺境で愚直に殉教の栄光と美徳を信じて死んでゆく宣教師。虐げられ、傷つけられ、声をあらかじめ奪われた小さき者とともにいることを選んだがゆえに「転んだ」としてもそれだけでは許されず、世俗の喜びの大肯定をむねとする社会に同化させるために心に培いつづけた信仰を生涯を通して自ら否定せよと権力者から迫られるもと宣教師。世界のはてのかたすみにも神はきっと愛を注いで下さる、と信じるものたちの目の前にある悲惨な現実はゆらぐことはなく、弱き者たちが見殺しにされ、救霊の可能性などひとつも省みられることのない「魂の暗夜」は現代の社会にも、むろん教会のなかにもたしかに存在します。

トモギ村の潜伏信徒に接した宣教師が「信徒たちは目に見えるしるしをほしがります。少し危険な傾向だと思います」と師にあてた書簡で述懐する場面があります。
「目に見える徴」はこの映画の重要なライトモティーフでもあります。「踏み絵は形式」と割り切って像を通した敬愛の念の表出を放棄し、内面の信仰のみによって義とされる道を選んだら、離教という「逸脱」の道へ墜ちることになるかもしれない。その恐怖に怯える宣教師の姿からは、「教会の外に救いなし」を深く深く内面化したひとびとにとっては、やむにやまれぬ事情から信仰の外側に出ることも、分派の信仰に近づくことも底なしの恐怖であったことがまざまざと喚起されます。
日本の宗教的風土のなかにあるアニミズムフェティシズムを通してカトリックの信心業にひそむ「目に見える徴」へのフェティシズムを看破した結果、「踏み絵」という信心用品への目に見えるかたちでの冒瀆を迫る道具を生み出す心性は、カトリックの聖堂装飾や信心用具の破壊へ向かう宗教改革期のプロテスタント・イコノクラスムの心性とも相通じるものがあるのではないか、とまで考えさせられます。見知らぬ他者の用いる信心用具への警戒感と踏み絵を刑具に用いる感受性は、折節にキリスト教の歴史の中で頭をもたげる聖画像や聖人崇敬や信心用具に対するイコノクラスム的な疑念と相通じるものがあるでしょう。
いまここにある世俗の喜びの肯定をよきものだと信じ、破戒の修道士の偽善をするどく暴き出す井上筑後守の発言。生涯不犯の誓いを挫いて日本の社会に同化させるためにほかの罪で処刑された者の名と妻を与えられ、南蛮わたりの品々から十字の文様のあるものを排除せよと命じられる棄教以後の沢野忠庵=フェレイラと岡田三右衛門=ロドリゴの暮らしぶり。身の周りの世話をしつづけたキチジローに習い覚えた日本語で「ありがとう。いっしょにいてくれてありがとう」と語るロドリゴ。隠し持った信心用具を発見されてついに捕縛されるキチジロー。トモギ村の潜伏キリシタンからもらった素朴な十字架を信仰のよりどころとして掌に包んだまま座棺に収められて火葬されるロドリゴの最後。いずれも巧みな描写です。キリシタン時代の日本に根を下ろしたトリエント公会議の信仰がしだいに「形を求める信仰」の姿をあらわすさまと、17世紀の凄惨で残酷な相互の不寛容のなかで「魂の暗夜」が生活世界に析出する状況を視覚的に体感させます。そして、目に見えるしるしとはなにか、見る者に鋭く問いかけます。

脇役に至るまで芸達者で細やかな俳優の演技も見所たっぷりです。細やかな演技と重層感のある演出が作中世界をふくよかにふくらませ、作中世界のひとびとが私たちの遠い隣人であるかのようにさえ思わせます。
映画版LOTRのフロドさんを想起させるアンドルー・ガーフィールドロドリゴ神父。BBCの歴史ドラマシリーズ《Rome》でカエサルを演じたシアラン・ハインズ扮するヴァリニャーノ神父の史劇役者的重量感。一本気なガルペ神父を演じるアダム・ドライヴァーの痩身と富士額。リーアム・ニーソンが演じるフェレイラ神父の棄教してもなおあたたかな包容力。いずれもカトリックの聖職者のたたずまいをよく研究した演技であると思います。アンドルー・ガーフィールドはスタニラフスキーシステムで訓練した俳優で、アダム・ドライヴァーともどもウェールズイエズス会修道院での黙想会に参加し、霊操の指導も受けた上で徹底的に17世紀のイエズス会士役になりきる役作りをしたとのことです。
イッセー尾形は時代劇の悪代官演技の定型をもって井上筑後守を怪演しています。宣教師の手の内を読んで彼らの論理の欠陥を突き、バロック・スコラの時代のカトリック教理と実践のなかで日本の支配階級にとって納得できない部分をことこまかに暴き立て、排耶論を展開するじつに小憎らしい役どころなのですが、演技の型ゆえに小憎らしさにおかしみさえ生まれてくるところがまさに演劇の底知れなさです。浅野忠信は通詞を演じて、心の奥底をひとに悟らせない怜悧な文化外交インテリのたたずまいをかもしだします。
ピーター・ブルックに見いだされて世に出た名優にして演出家、笈田ヨシは村の潜伏キリシタンの長老を演じています。日本の伝統演劇と西洋の伝統演劇をふまえて、人間のいとなみの息づくふくよかな舞台を作る役者としてのたたずまいを体現する演技です。
窪塚洋介のキチジローには賛否あるようですが、私ははまり役だと思いました。蓬髪を振り乱す粗野と素朴、信仰を求める意志とうらはらな生きぬこうとするしたたかさと弱さを説得的に演じる役柄は、窪塚洋介のたたずまいにほのみえる剛毅さあってこそ勤まるものでしょう。何度も何度も転んでは告解を求めるキチジローに(あーこいつまたかよーおつとめだからしょーがねーなー)と思いながら素早く告解をきいてやるロドリゴ神父の苦虫をかみつぶしたような表情の演技まで拾う描写も細やかです。あの苦虫をかみつぶしたような笑顔は教会関係者には見覚えのあるものでしょう。
トモギ村の潜伏キリシタンのおばちゃん役で《やっぱり猫が好き》の猫姉妹長女・片桐はいりが出ています。「パードレ、コンヒサンばつかあしてください。コンヒサン。」とつとつとした英語から長崎弁に切り替わる機微を拾う演出も実に上手です。

「17世紀の日本で宣教師と日本人の共通語がポルトガル語のはずなのに作中世界でみんな英語をしゃべっている」問題は「ポルトガル語を英語に吹き替えたアメリカ映画」だと思ってみればあまり気にならないかもしれません。それにしてもジャパニーズイングリッシュがこれほどに堂々とスクリーンに躍動する映画があったでしょうか。英語の多様性への配慮もぬかりありません。

何度か見るとそのたびに考えが深まる作品でありましょう。原作と往還しながらまた見る機会があればと思います。