ホッキョクウサギ日誌

宗教史、宗教学、詩と短歌と文藝評論とその周辺をめぐるよもやまばなし。

山崎佳代子『パンと野いちご』(勁草書房)刊行記念トークショー(2018年8月7日・セルビア大使館)

山崎佳代子さんの『パンと野いちご』(勁草書房)刊行記念トークショーに行ってきました。旧ユーゴスラヴィア解体とボスニア紛争下での食をめぐる経験を、コソヴォでの難民支援文藝プロジェクトに参加した難民キャンプの女性たちや、周囲の方々から山崎さんが聞き書きしたルポルタージュが『パンと野いちご』に結実しました。
トークショーは山崎佳代子さん・阿部日奈子さん・ぱくきょんみさんの鼎談形式です。勁草書房で本書を担当した編集者・関戸詳子さん念願の企画とうかがいました。
セルビア大使館ウェブサイトでの告知はこちらです。

まず、山崎佳代子さんから会場と鼎談メンバーについて解説がありました。
この日会場になった現セルビア大使館の建物は旧ユーゴスラヴィア大使館を引き継いだもので、この場所が日本語へのユーゴスラヴィア文学・映画・文化の窓口を担ってきたとのこと。山崎さんがユーゴスラヴィアへの留学を志した1979年当時、留学生試験の会場でもありました。
今回の鼎談参加メンバー(山崎佳代子・阿部日奈子・ぱくきょんみ)は、三人とも書肆山田から詩集を上梓しており、阿部さんはスメデレヴォ詩祭に、ぱくさんはレシッタ詩祭(※レシッタはルーマニアセルビア系住民の多い都市)に参加したことも。ここに集っている人もセルビアの風を体験したことのある人が少なからずいるのでは、とのことでした。
 
ツイッターに放流した鼎談メモを再録します(対談部分敬称略)。
セルビアルーマニアでの詩祭の話題や、『パンと野いちご』で印象に残ったエピソードと食べ物を通して、詩と小さな声で語られる「ばらばらに散らばったもの」を集める営みについて語る夕べでした。

【山崎佳代子さん・阿部日奈子さん対談】
阿部日奈子:2011年、東日本大震災後にスメデレヴォ詩祭に参加した。詩祭のさいに震災後の日本と日本語文学の状況を説明する必要があった。村上春樹の文章も参考にして考えた。地震だけでなく原発事故について説明しなければならないのが課題だった。被害者でもあると同時に加害者であること、原発労働者の労働環境が劣悪であるという話が現地の詩人たちに深い印象を残した。
セルビア料理は肉料理が多くて家庭でも作れそう。 『パンと野いちご』に出てくるエピソードでは、家にたくさんの人を受け入れる懐の深さが印象に残った。

山崎佳代子:取材の過程では、多人数で食べられる鍋料理の発達が印象に残った。『パンと野いちご』に登場する同世代の人の経験についてはどう思うか。
阿部日奈子:ユーゴ時代に育ち、両親の時代の経験も知っていて、時代が変わる時にどうするか。この経験を際立たせる歴史の教員のエピソードが特に印象に残った。本人自身がユーゴの現代史であると同時にユーゴの現代史を俯瞰的に見られる立場でもある。
 スメデレヴォ詩祭で「蜉蝣日記」(※詩集『キンディッシュ』(書肆山田・2012)所収の婚外恋愛主題の詩)を朗読したら驚かれてしまった。セルビアには恋愛詩に対する保守的な観点と生涯現役の恋愛観のダブルスタンダードがあるとそのとき参加詩人たちからきいた。恋愛の駆け引きの話は詩ではなく小説で書くのだそう。
山崎佳代子:谷川俊太郎の「おならうた」の翻訳をアンソロジーに入れようとしたらセルビア側の編集者から顰蹙を買ってしまったことがある。ヨーロッパの人にとってスカトロジーはタブー。たぶんそれが駄目だったのかも。

【山崎佳代子さん・ぱくきょんみさん対談】
ぱくきょんみセルビアではピッタ(※パート・フィロでチーズを挟んだパイ)が美味しかった。
山崎佳代子:美味しいが生地(※パート・フィロ)の作り方を家庭で安定して再現するレシピを書くのが難しいので『パンと野いちご』のレシピに入れられなかった。
ぱくきょんみ:大陸出身の両親の好きな料理を食べ、日本で育つと洋食がしっくりくる。ロシア料理も好き。バルカン半島の料理にトルコとのつながりを感じた。
山崎佳代子:ピッタも大人数で分けられる料理ですね。
ぱくきょんみ:『パンと野いちご』の中ではやっぱり焼肉大会のエピソードが印象に残った。節約や工夫が理由ではなく、冷凍庫で溶けてゆく生肉を最後まで食べきって明日の力にしようとするところがいい。
山崎佳代子:ユーゴでは巨大な冷凍庫が普及していた。家族と近所の人に分けられるような零細農業が盛んだったので屠殺したものを貯蔵して分けて食べる文化がある。
ぱくきょんみ朝鮮半島の食文化もたくさん作ってたくさん分ける。食べ物を分け合い、技術を分け合い、一緒に食べることで人を人を結びつける文化を感じるようになってきた。バルカン半島でも同じようなことを感じる。食べ物の話題は直感的にわかる部分。 ラードの使い方も『パンと野いちご』のなかで丁寧に描かれていてためになった。
山崎佳代子:ラードは栄養価が高く、料理にも軟膏の基材にも使われている。ラードの使い方は難民も大切にしていた知恵だということがよくわかる。
ぱくきょんみ:キャベツのサラダの、キャベツを油であえてから酢を入れる調理法も美味しい。おすすめ。
山崎佳代子:コソヴォのトマトをいれるキャベツのサラダですね。食べ物の記憶を蘇らせることで生き延びられる。
ぱくきょんみ:山崎さんが語りかけることで難民の人たちが語って心をほぐすことができる。それが解放につながる。遠い国から来た人であることがさらに大事だったのかもしれない。
山崎佳代子:コソヴォの女性たちが語ってくれたことはまったく民族主義とは関係のないこと。池澤夏樹さんを招いての会で料理を食べながら現地の女性が初めて語ってくれた話もある。 今なら話せる、この人なら話せる、が重なった時にはじめて語られて記録に残ることがある。

三者鼎談】
山崎佳代子:今日の衣装はセルビアの伝統衣裳のねまき。古道具屋さんで買った。伝統衣裳の作り方が1960年代までは花嫁修行として継承されたが、その後放棄されたのだろうと古道具屋さんの談。このようにして伝統衣裳を着ることで伝承されてきた技法を伝えることができるのかも。
阿部日奈子:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが好き。砕かれてたくさんに散らばった真実を集める手段としての聞き書きという手法が『パンと野いちご』にもある。語り手のそれぞれに名前があるということが素晴らしい。
山崎佳代子:
『パンと野いちご』は担当編集者の勁草書房の関戸詳子さんに背中を押されて三年かけて書けた。ベオグラードでの隣人にダッハウ収容所からの生還者(※『パンと野いちご』に登場するラドミラさん)がいて、初めて話を聞くことができたところから始まった。若者の頃、反ナチ運動に関わった人たちからも話を聞いた。無神論から民族主義への転換の苦しみがあった。ラドミラさんのいう「神さまお迎えに来てくださらないかしら。キリストは私を肝心なところで助けてくださった。共産主義と信仰は矛盾しなかった」のエピソードも、歴史の中では忘れられてゆくが、料理を食べながら共有される。そこが詩と似ているかもしれない。
ぱくきょんみ:(『パンと野いちご』のコソヴォの女性たちが詩を作る)「私は詩を作りました」のエピソード。とてもつらいことひもじいことがあったときに言葉が人をつないで行く場に接したとき、詩を産みたいと思った人がいたのかもしれない。口承で伝えられて来たもののほうがむしろたくさんあると思うので、山崎さんにはぜひ民謡の口承の系譜を見ながら続けて欲しい。
山崎佳代子:(『パンと野いちご』所収の)コソヴォの女性の詩は 『みをはやみ』のセルビア語版を朗読したさいに、コソヴォの女性たちが応答として書いたものを一行づつ合わせたもの。聴き落としていた一行「パンの命が変わった」をセルビア側の速記者が書き取ってくれた。
阿部日奈子:これから散らばった記憶を集めることが大事になってくる。語りたくても語れない人がたくさんいる。死者だけでなく、どうしようも取り返しのつかない体験を持つ人がいる。まず語れるところから語ろうとしている人たちの言葉が本書に出てくる。
山崎佳代子:体験主義は怖い。湾岸戦争後の紛争と経済封鎖は他人事ではない。語れない人たちのなかには子供達もいたかもしれない。 物事は単純化してしか報じられないので我々は料理を作ることくらいしかできない。21世紀の救いってなんだろう?誰かに権利もないのに罰を与えているのかもしれないし。
ぱくきょんみ:救いはないと思っているけれど、絶望を知るとなにかが動く。希望とは呼びたくないけれどなにかがあると信じている。
阿部日奈子:救いはないと思うけれど、忘れてしまうことのほうが怖い。忘れないようにしたいと思う。
山崎佳代子:みなさんもこの本からなにかおいしいものを作ってください。

鼎談は以上です。

これに続いて、セルビア民族楽器奏者・角岡太郎さんのバグパイプ演奏がスペシャル・サプライズとして行われました。セルビアには北のバグパイプ(三音のガイデ、ハンガリーからクロアチアにかけて演奏される)と南のバグパイプ(二音のガイデ、マケドニアブルガリアにも)がありますが、この日の使用楽器はヴォイヴォディナのヤギの風袋のバグパイプ。ふいご付きなので吹き歌いができる笛(つまり一人でバンドができる笛)とのこと。ヴォイヴォディナ民謡はメジャーの曲が多い。南へ行くとマイナーの曲が多いが、南のレパートリーでもメジャーの曲ならヴォイヴォディナ型の楽器でできるとのことでした。

『パンと野いちご』
勁草書房特設サイトはこちらです。目次も見られます。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによるルポルタージュと志を共有する好著です。

www.keisoshobo.co.jpAmazon ではこちら。

本書にはセルビア料理のレシピもついています。
山崎佳代子さんは料理の達人です。彼女ならではのとてもおいしく家庭で気軽に再現できるものばかりです。大いにおすすめします。レシピの一部はあとがきとともに「けいそうビブリオフィル」の特設サイトで見られます。

keisobiblio.com

なお今回登壇された阿部日奈子さんによる『パンと野いちご』の書評が現代詩手帖2018年10月号に掲載されています。
1968年特集と(私も寄稿した)「『月吠』番外編」と併せてぜひご覧下さい。
思潮社『現代詩手帖』のサイト Amazon

現代詩手帖2018年10月号「小特集・『月吠』番外編」に寄稿しました。

  現代詩手帖2018年10月号「小特集・『月吠』番外編」に「箱庭を祓う」を寄稿しました。箱庭のような「近代市□街」の世界構造、なんらかの怨霊のようなものであろう「縊死体」に宿ったものと鎮魂のテーマ、リスペクタブルな詩と(作中世界では「神」とされている)同時代の環境からは突出した存在であると同時に後世の人にとっての理想の詩人のゆくえを、白さん(北原白秋)・朔くん(萩原朔太郎)・犀さん(室生犀星)・釈先生(折口信夫釈迢空)・龍くん(芥川龍之介)に焦点をあてて論じています。『月に吠えらんねえ』にこれからふれる方にもフレンドリーな構成を心がけました。

 同誌同時掲載の1968年詩特集は、『帷子耀習作集成』(思潮社)と四方田犬彦福間健二編『1968 [2] 文学』(筑摩書房)刊行記念企画です。

 四方田犬彦さん帷子耀さん藤原安紀子さん鼎談、福間健二さん蜂飼耳さん対談、佐々木幹郎さん金石稔さん秋亜綺羅さん倉田比羽子さんの文章は、語られなかったことで伝説となった政治の季節の詩についての貴重な証言。いまだからこそ語れる(聴ける)ものだと思います。かの時代の詩に触発されて制作活動を始めた1970年代以降生まれの詩人たちの思考も浮き彫りにされる巧みな人選と構成です。
 詩手帖さん良くぞ特集を組んでくださった。

 四方田犬彦さんと藤原安紀子さんとの鼎談で帷子耀さんが語る、「大人たちには時分の花と呼んでほしくなかった」エピソードと、塚本邦雄をはじめとする名だたる詩歌人たちに絶賛されて詩集を上梓したら初版1500部がさっぱり売れずに筆を折って家業を継いだエピソード。帷子さんの期間限定制作復帰作品の自在な巻頭詩と、「高三コース」投稿欄で寺山修司に見出されて第一詩集2000部も完売した秋亜綺羅さんの回想と合わせて読むと何度読んでも胸に迫ります。詩人の栄光とポピュラリティと経済活動のゆくえを考えさせるものでもあります。
 1968年特集は『月に吠えらんねえ』特集とも交差します。
 どちらの特集でも政治の季節の詩と少年性と女性詩人と女性性のゆくえについて言及されています。今回の「『月吠』番外編」では佐藤弓生さんとタケイ・リエさんがこの問題に明快に斬り込んでいます。タケイさんは作中世界の女性登場人物の立場を「x軸=先進性と受容性/y軸=自立と依存」マトリクスを作って考察されています。見ては私はどこに入るかな、と思わず考えてしまいます。
 日本語詩の近代と現代の連続性/非連続性について考えたい皆さまも、『月に吠えらんねえ』屈指の神回「あこがれ」(タイムスリップした石川くん(石川啄木)がゲバルト・ローザ(学園紛争期の女性革命闘士)と出会う挿話)や、清家雪子先生の前作『まじめな時間』に登場する、貧困と病苦のうちに死んで怨霊となる学園紛争期の革命闘士の妻にぴんと来た月吠ファンの皆さまもぜひ手元に置きたい一冊です。
 清家先生の朔くんタイムスリップまんが続編「だめになるやつ」も『月に吠えらんねえ』公式ツイッターアカウントからの再録で掲載されています。一見たんたんと醒めているように見えてしっかり居候の朔くんを受け止める詩を書く青年の人となりも、予想以上に21世紀に順応してさっそくテレビとネットに夢中になりつつも詩の話になるとひたすら親身で真剣な朔くんの愛すべき人っぷりも読んでいてだんだん愛おしくなってきます。「だめになるやつ」とその後のエピソードの初出はサッカー・ワールドカップ時でしたから、朔くんがひたすらリアル朔太郎に似た美形のサッカー選手(ろなうど・はめす・めるけんす)に思い入れる挿話もあり、じつに味わい深いです。
 現代詩手帖2018年10月号をみなさまぜひお求めください。

 

現代詩手帖』2018年10月号 思潮社 Amazon

(『現代詩手帖』2018年6月号『月に吠えらんねえ』の世界 Amazon
帷子耀習作集成』 思潮社 

『1968[2]文学』 筑摩書房 Amazon

国際ワークショップ「精神医療の「過去」と「現在」を展示する」(9/17・慶應義塾大学日吉キャンパス)

国際ワークショップ「精神医療の「過去」と「現在」を展示する」(9月17日・慶應義塾大学日吉キャンパス)に行きました。
 

igakushitosyakai.jp


英国の精神医療博物館の展示、私宅監置制度の検証の展示、日本のアール・ブリュット支援の話題です。
精神医療の歴史と医療としての表現の試みを人権と尊厳の見地をふまえて継続的に記録・展示する活動を模索・支援することがいかに重要か、勉強になりました。
展示部門もインパクトあり。ベスレム精神病院博物館・文書館からの精選作品パネルが印象的でした。見せ方が巧みです。美術の素養ありと思われる描き手の作品や、病院のアートスタッフの撮影技術が光る写真も。

museumofthemind.org.uk

日本のアール・ブリュットのトップアーティストの作品も展示されていました。作家の尊厳を守る発掘展示に携わる方々の強靱な意志と心と平衡感覚に敬意を表します。私宅監置制度史の移動展示はぜひ今後も各地で行われることを期待します。精神医療史と芸術表現関連のテーマはさまざまな可能性をもっています。今後の展開が楽しみです。

現代詩手帖2018年10月号予告(1)

現代詩手帖10月号の告知が出ています。『月に吠えらんねえ』特集(『月吠』番外編)でひらがななまえで作品への愛を唄っているのでぜひ買って読んでください。今回は作中世界の怨霊と詩人の理想像とそれぞれの詩人たちのかかわりについてわりとゆるめに書きました。清家雪子さんの前作『まじめな時間』にも言及しています(『月に吠えらんねえ』が完結したら『まじめな時間』の怨霊の表象とあわせてまじめな論文を書きたいです)。

www.shichosha.co.jp

現代詩手帖2018年6月号『月に吠えらんねえ』特集に寄稿しました(2) なかにし担当分への追い書き

おかげさまで現代詩手帖月に吠えらんねえ』特集がよく売れているようです。ありがとうございます。中学生のときからの詩手帖読者ですが、こんなにフィーバーしている詩手帖をリアルタイムで見るのは初めてです。
さて、人物解説なかにし担当分の追い書きです。
今回は単行本既刊分8巻までを参照して書きました。

西脇順三郎は本作では喫茶店のマスター(カフェJUNマスター)として登場します。綺麗なティーカップを並べた明るく清潔な喫茶店です。詩の話をしていてもうるさがられないカフェーなので□街住人の憩いの場になっています。
1945年以前の西脇順三郎作品(『Ambarvalia』と『超現実主義詩論』)のほか、新倉俊一先生による一連の西脇の評伝や伊藤勲先生の初期西脇研究からわかる西脇像を擬人化すると確かに洋行帰りの瀟洒な紳士になるでしょう。慶應の理財科(現在の経済学部)に籍をおきながらウォルター・ペイターとニーチェを耽読してラテン語で卒論を書いた文学青年西脇、慶應の文学部のファカルティメンバーになってから(古英語・中世英語を学ぶ使命を負って)洋行してリアルタイムのモダニズムに興奮した文学青年西脇のおもかげがあります。西脇先生のご実家が新潟・小千谷で名を馳せた銀行家だったことも、世を忍ぶ仮のすがたを喫茶店の店主とする本作のカフェJUNマスターの設定に効いているかもしれません。
ところでカフェJUNマスターの容貌が西脇先生ご本人より私の宗教学師匠に似ているように思えるのは気のせいでしょうか(東大人文社会系研究科ウェブサイトに掲載された師匠のエッセイを読むとたしかにそこはかとなくモダニズム詩人気質であるのも感じられます)。『月に吠えらんねえ』のにしわき先生は近代市思想街あたりにコーシャーレストランももっていらっしゃるのでは、と思わず想像を逞しくしてしまいました。宗教学関係ユダヤ学関係のみなさんはぜひ『月に吠えらんねえ』1巻をチェックしてみてください。

折口信夫釈迢空)が本作では「釈先生」としてすこぶる素敵に描かれています。BBC制作の探偵ドラマで主役を張りそうな名推理ぶりもさることながら、お弟子さんたちの回想からしのばれる名教師ぶりの反映も大いに感じられます。愛情と教育的配慮の深さと「日本の詩歌の根」と怨恨にそそぐ洞察の鋭さの描写などじつに惚れ惚れします。8巻刊行以後のアフタヌーン本誌連載分ではさらに釈先生の「日本の詩歌の根」にかける思いが明らかになっています。2018年7月号掲載の50話では「人を深く思ふ神ありてもしものいはば我の如けむ」の境地に達しています。ますます目が離せません。
折口信夫を前にするとなにか辛辣なことを言わずにはいられない柳田國男とのハードボイルドな師弟関係も、ごく短い場面ながら釈先生とヤナギタ先生の描写にしっかり反映されています。
はるみくんは春洋さんの遺稿集『鵠が音』収録作品そのものの温厚篤実なお人柄です。
釈先生はるみくん推しの読者のみなさんに細やかに深く愛されるゆえんです。たっちゃん(堀辰雄)と並ぶ好人物です。
本作のたっちゃんは詩誌『四季』を率いて先輩からも後輩からも信頼される文壇きっての良識人として描かれています。実に頼もしい。西洋文学のはかなげな部分を愛する蒲柳の質の高原療養文学の書き手という通念がみごとに覆されて爽快です。堀辰雄リルケもじつは骨太な詩人なのです、そうは思いませんか?という声が聞こえてきそう。

犀さん(室生犀星)の人柄はやはり飄々とあたたかくチャーミング。商業作家になって成功してはみたけれどもういちど詩心を取り戻したい、と戦争空間に鎮魂の旅に出る設定が卓抜です。どんなに殺伐とした場面でも彼が出てくると読んでいてほっとします。本作で犀さんの顔がない理由のひとつには現実のご本人が容貌を気にしていたこともあっただろうか、とずっと思っていましたがどうやらそうではないようです。作劇上の要請とのこと、ますます興味を惹かれます。8巻になって小説街で住民票を得た犀さんの顔がようやく描かれます。萩原朔太郎北原白秋を共通の師とする大親友であったはずの犀星が商業作家になることに複雑な思いを抱いていましたから、朔くん(萩原朔太郎)視点の□街の世界で犀さんの顔が見えない設定になっているのは非常に納得のゆくところです。小説街での犀さんの顔立ちはハートフルでバランスたしかな犀星作品にふさわしい容貌だと思います。今後の動向が見逃せません。

今回の寄稿にあたって、三島由紀夫の晩年の作品と川端康成との往復書簡や、芥川龍之介キリシタンもの王朝ものを再読しました。
文壇の大御所になっても文章の世界では永遠に若く「美しい日本の私」でありたい川端康成とその作品のイメージも、美に殉じようとして生活そのものが演技となる晩年の三島由紀夫のたたずまいそのものも本作ではみごとにキャラクター化されています。「近代ゴリラ」の楯の会の軍装と舞台化粧風のノーズシャドウと目張りでもうこの人デンジャラスな人だなって一目でわかります。
作中の龍くんは芥川作品のあの怜悧で端正でほのかにセンシュアルな文体そのもののキャラクターです。BBCシャーロックのアイリーン・アドラーのことばを借りれば「頭脳明晰ってセクシー」。霊体なだけに作中世界の時間構造や時空のゆがみへの洞察もひとなみはずれて鋭いのです。朔くん相手にこぼす「小説家の世界は陰険だ、学者の世界はもっと陰険なんだろう、僕は詩の世界が良い」のことばに思わずうなずいてしまいます。詩人気質と秀才気質のあいだで葛藤しつつもときどきお茶目な一面を見せるところなどじつに味わいぶかいです。龍くん頭脳明晰でセクシーですね、って言ったら、頭脳明晰がセクシーなら□街の謎をほどくためにけふこ君もいっしょに考えなさい!脳みそを全回転させて考えなさい!って言われそうです。なお、本作では河童はいまのところでてきません。

車掌さん/ケンジ(宮澤賢治)のプロファイリングは腕のみせどころでした。
なんといっても私にとっては母方の郷土の偉人・賢治先生です。小中学生の頃、一関で高校の国語教師をしていた伯母につれられてよく夏休みに賢治・啄木・光太郎史跡詣でをしたものです。やはりサイエンティストでもあった農村改良運動家としての印象が私には強く残っています。
本作の車掌さんは「狸の車掌を着た過去の□街の神さま」です。チューヤくん(中原中也)の後に「□街の神さま」になったケンジは何らかの理由で「神さま」を降り、いまは主人公の朔くん(萩原朔太郎)が持て余し気味に「神さま」を引きうけていることがわかります。
ここで想起されるのは戦後詩史のなかの詩の理想像の変遷と中原中也宮澤賢治萩原朔太郎への回顧です。無垢で無頼な青春詩の範型。人知れず宇宙的なスケールの詩を書き明るい未来を幻視する農村の聖者。すべての実験が尽きてしまった後に召喚される誰よりもラディカルな「現代詩の母」。三人ともいずれも戦争詩との距離のある人々です。どんなに生前人気のあった名匠でも、ひとたび戦争詩に職人芸を発揮してしまった人は「神さま」にはなれない。白さん(北原白秋)やミヨシくん(三好達治)やコタローくん(高村光太郎)も、最晩年に日本浪漫派に傾倒したミッチーくん(立原道造)も「神さま」にはなれないのです。□街の外にいる不特定多数の読者による詩と詩人の理想像が「神さま」の人選に反映されているであろうことは容易に想起できます。
(50話での釈先生による「□街の神さま」選出機構の解釈を見る限りでは、「不特定多数の読者による詩と詩人の理想像」とは言い切れないようです。今後の動向がますます気になります)
朔くんが遭遇する過去の□街での「農村の詩の聖者」ケンジの描写には、1990年代から2000年代前半くらいのファンシーなスピリチュアル系賢治受容とその観光的商業的利用への鋭い批評が反映されています。思わず唸りました。過去の□街では、詩人たちは見るからにファンシーでキッチュな意匠の動物のかぶりものをかぶり、聖者とともに無記名の痛みなき優しさと癒しの歌をともに歌っています(動物のかぶりもののタッチが作中で朔くんやミヨシくんや白さんにつきまとうワナビー詩人の涼貴乃我有さんの作画に似ているのもツボ)。そんな詩人たちの姿を見たケンジは「こんなはずではなかった。私の宇宙意識はこんなものをめざしてはいない」と衝撃を受け、朔くんは「これは地獄だ」と呟きます。宮澤賢治のいう「ほんとうのしあわせ」はここにはないのです。
この場面の「宗教性」の描写は、日本語現代詩史における「宗教的な詩」「形而上詩」の受容をめぐる困難のかたちを明確に切り取っています。清家さんうまい。またも唸ってしまいます。人知れず森羅万象につらなる詩を書いた詩人を必要以上に聖者視するのも、詩人たちに無名性匿名性に殉じて誰もが安心する無憂の無痛世界の歌を歌えと強いるのも、やはり大量動員の詩学へのじゅうぶんな反省を欠く土壌に現れる現象であるでしょう。Not religious, but spiritualを標榜する読者に対しても、詩歌のなかにあらゆるかたちの「聖性」を見出してあたかも現代の祈りの歌であるかのように思いなすよう勧める「趣味の審判者」もこの困難からは自由ではないでしょう。
近代岩手の貧しさと困難につらなる現在を「イーハトーヴ」の名のもとに優しくやわらかく覆う観光戦略と、ひたすらに柔和な聖者のような賢治像を理想化する『賢治の学校』的なものにいわくいいがたい思いを抱えるみなさんも必見です。東日本大震災以後の癒しと涙の詩に疑問を覚えるみなさんも必見です。
「□街の神さま」を降りたケンジは『銀河鉄道999』の車掌さん風の制服を着て近代市の諸街区を結ぶ環状鉄道に添乗するたぬきになるのですが、この造型がやはり卓抜です。外界への脱出方法をどうやら彼は知っているらしい。熱く危険でラディカルな世直しへの思いを透明な幻想の宇宙誌と郷土誌につつみ、動植物寓話のかぶりものをかぶって韜晦する賢治の作品世界がみごとに反映されています。

「神さま」システムと近代市の時間構造、犀さんの顔、釈先生とはるみくん。清家雪子さんの前作『まじめな時間』にでてくる怨霊によく似た黒々としたなにか(縊死体でも「ひのもと」の弟たちでもあるなにか)。これらについてはぜひそのうちしっかり論じたいです。交通事故で亡くなった女子高校生を主人公に、成仏まえの霊体のいる中間的な他界を描いた『まじめな時間』もとてもおもしろいですよ!

月に吠えらんねえ』公式アカウントでの清家雪子さんからの現代詩手帖月に吠えらんねえ』特集へのメッセージはこちらです。細やかなお気遣いありがとうございます。詩についての散文を書いても漢字名前で言及されることが多かったきょうこのごろ、ひらがななまえで言及いただいたのはほんとうに久しぶりです。とても嬉しいです。
(清家さんは日本史専攻から創作活動に転じられたとのこと、そこはかとなく親近感を抱いております)
今後の展開がとても楽しみです。ますます心して拝読してまいります。

とても一冊では論じきれないお話ですし、アフタヌーン本誌でもどんどん物語が動いているようですので、特集第二弾があればとても嬉しいです。
https://twitter.com/hoerannee/status/1000753851396337664https://twitter.com/hoerannee/status/1000753851396337664

現代詩手帖2018年6月号「『月に吠えらんねえ』の世界」に寄稿しました

現代詩手帖6月号『月に吠えらんねえ』特集に寄稿しました。
清家雪子さん作のまんが『月に吠えらんねえ』の主題は日本近代詩歌と戦争。1945年8月15日から後の時空に行けない「近代市□街」に閉じ込められた詩人たちの物語です。
各作家の人となりと作品世界・教育史も含めた受容史から喚起されるイメージをぎゅっと凝縮した擬人像むれなす群像劇の傑作です。21世紀の女性作家にとっては異文化でもある旧制高校教養文化への批評の物語としても興味深く読めます。考証たしかでイメージの飛翔も豊か、若い人たちにとっての文学への問いと広義の古典の入り口になるイラストレイテッド・ノヴェルのなかでは出色の作品だと思います。
文豪をイラストレイテッド・ノヴェルで描くには絵がいのちです。映画的な構図とともに東洋の成人男性の肉体をリアリティをこめて美しく描けるってすばらしい。

今回の特集では清家雪子さんの書き下ろし8頁と昨年の前橋文学館での萩原朔美さんとの対談も再録されています。
特集への寄稿者それぞれの意気込みと愛にあふれる一冊で、こんなにアツい現代詩手帖はなかなかありません。
人物紹介だけでも執筆陣のなみなみならぬ気合を感じます。
萩原朔太郎研究会のみなさまの深い洞察に貫かれてたのしそうでしかも勉強になる座談会と藤井貞和先生のオリグチズムあふれるあたたかなエールに胸打たれます。

www.shichosha.co.jp
私は登場人物紹介を一部担当しています。

犀(室生犀星
カフェJUNマスター(西脇順三郎
車掌さん・ケンジ(宮澤賢治
釈先生(釈迢空折口信夫
はるみくん(折口春洋(旧姓藤井))
龍くん(芥川龍之介
カワバタくん(川端康成
たっちゃん(堀辰雄
近代ゴリラ(三島由紀夫
ヤナギタ先生(柳田國男

西脇先生、賢治先生、釈先生に春洋さんに柳田先生、犀星先生、いずれも詩的恩義のある方々ばかり。芥川龍之介川端康成堀辰雄三島由紀夫のお四方は偉大な先輩です。
清家さん、釈先生とはるみくんをすこぶる素敵に描いてくださってほんとうにありがとうございます。
芥川龍之介の文体そのものの作中世界の龍くん。BBCシャーロックのアイリーン・アドラーのことばを借りれば「頭脳明晰ってセクシー」。秀才気質と詩才のあいだで揺れるほんのりお茶目さんキャラなのがじつにいいかんじです。
追い書きは別エントリで!

月に吠えらんねえ』には改めてしっかりと紙幅を割いて論じたい題材があふれています。宗教学者としては腕が大いに鳴ります。今後の展開がますます楽しみです。
ほんとうにたのしい仕事でした。ありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

Amazonこちら。hontoはこちら紀伊國屋書店ウェブストアはこちら
もしかすると直接思潮社に注文されるのが早いかもしれません。みなさんぜひ読みましょう。

『うたえ!エーリンナ』をよみました

佐藤二葉さんから『うたえ!エーリンナ』をご恵投いただきました。
ありがとうございます。
佐藤二葉さんは総合ギリシア劇を手がける21世紀のバッケー的存在です。
星海社のまんがウェブマガジン「ツイ4」に連載された4コマまんが連作の書籍化です。
ツイ4のサイトはこちら。
紀元前4世紀の女性詩人に、エーリンナという人がいます。『ギリシア詞華集』に収録されたエピグラム3篇と、夭逝した親友バウキスへの思いを英雄叙事詩の韻律ダクテュリコス・ヘクサメトロスでうたいあげた詩「糸巻棒」(現在は断片で残存)で知られた人です。
 
はるか後代のビザンツ帝国期(10世紀)の『スーダ事典』にも立項されている人ですが、ここにはなんと〈エーリンナはサッポーと同時代人だった〉という説がでてきます。
現代では異説として否定されていますが、もしほんとうにそうだったらきっと鮮やかな詩魂の交歓があったはず…
その想定のもとに紀元前6世紀のレスボス島を舞台として、サッポーの学校に学ぶエーリンナと学友たちの詩人修行/花嫁修業群像を描いた快作です。考証も確かで、紀元前6世紀の社会と現在の人間観や社会規範との違いを現代人に考えさせるように描く配慮も備わった作品ですので、学校でも安心して推薦できます。構成も巧みで、芸術論・ジェンダー論の観点からみても興味深い作品です。
 
古代ギリシアの社会はたいへんにジェンダー役割分業のきびしい社会でした。公的な場に出られるのは自由人男性だけ。女性にはよき主婦として家政の裏方を司り、家で糸をつむぎ、機を織り、そしてなにより多産であることが求められていました。
年頃の少女たちにも少年たちと同様に教育を受ける機会がありましたが、その目的はやはり可能な限りよいお家に嫁いでよき花嫁になること。よき花嫁になるためには同年配の男子とは話してはいけない(自由恋愛などご法度)。詩歌や竪琴の演奏を学ぶのも花嫁修業の一環でした。
 
詩歌の社会的地位が高い時代でした。詩歌は神々の霊感を受けて作るもの、神々への捧げものとして歌われるもの、スポークン・ワーズとして共有されるものだった時代です。
物語はレスボス島でのアゴーン(朗唱・合唱上演を前提とした詩歌コンクール)に向けての傾向と対策と練習を軸に進んでゆきますが、当時の詩歌をめぐる状況と上演に向けての練習への洞察やパフォーマー心理の描写に佐藤二葉さんの俳優ならではの視点が光ります。
芸術家の先輩としてよき教育的配慮をもって生徒たちに接するサッポー先生もアルカイオス先生も魅力的ですし、サッポー先生の学校の生徒さんたちも年相応のいろいろを抱えつつもチャーミングです。
エーリンナが天真爛漫そうに見えて、社会に順応した少女として生きるにはさまざまなつらさを抱えたキャラクターに描かれているのが味わい深い。
サッポー先生の学校に花嫁修行のために入学したエーリンナの心の奥底には人知れず燃える野望がありました。
サッポー先生に詩を習って、いつか最高の詩人になって歴史に爪痕を残したい。
ムーサに魅入られた者の
目を通して社会の諸矛盾が見えてきます。
サッポー先生が紡織と詩歌の類似点を語ってエーリンナに(こんな社会のなかでも)女性が生きる喜びを伝え、よいお嫁さんになりたい
同輩たちがアゴーンに向けて心をひらいてゆく様子も説得力があります。
良家の娘で美人で家事全般おおいに得意でよいお嫁さんになりたい古代ギリシアのパーフェクトガール、バウキスが、はじめは謎の同輩だったエーリンナと友情を紡いでゆく様子もほほえましい。女性どうしの友愛のモティーフが細やかに描かれていて胸打たれます。日本のマンセントリックな社会のなかにもひっそり息づく女性の友情に支えられてきた経験の多いものとしては嬉しくよみました。
 
ここでアルカイオス先生の弟子で歌の上手い美少年リュコスをエーリンナのライバルに配したのも絶妙です。
リュコスは当時の家父長制的な価値観をがっちり内面化した早熟な少年です。リュコスは自信家さんですが、自称念者候補の年長者にもててもてて困る自分をもてあまし、やがては家業を継がなければならない未来をもてあまして、エーリンナという突如現れた技芸のわかりそうな女性のライバルにそれはそれは尊大に接してつらくあたります。リュコスの友人メノーンが比較的社会に順応した少年として描かれているだけに、リュコスの立ち居振る舞いを通して、女性を対等な存在として見ることを少年たちに教えない社会や、なにかと美化されやすい古代ギリシアの念者念弟システムの不条理も浮かび上がります。
ほがらかに先生や先輩に秘訣を教わり、親友に支えられていても、情熱だけでは突破できない状況がつづくエーリンナ。技芸にすぐれた少年には敬愛の念を受けとめてもらえるどころか、彼女の父親や兄などの世の多くの男性と同じように「女のくせに人前で歌うなんて生意気だ」とさんざん冷たい言葉を浴びせられる。だんだん人前で歌うことや詩歌にかかわることじたいへの恐怖を心のなかに植え付けられてゆきます。当日の舞台でひるんでしまうエーリンナの思いはおそらく21世紀の私たちもどこかで体験したことがあるものかもしれません。
 
デウス・エクス・マキナは出てきませんが、アゴーンの審査結果は爽やかです。蜜のような声でつむがれる歌を神がお喜びになった。ムーサイに微笑まれた人はその微笑みを受けて生きよう。このメッセージには21世紀のバッケーの祈りが籠められています。

西洋古典学を専攻した女性の描き手によるなつかしい絵柄のチャーミングでラヴリーなまんがで古代ギリシア抒情詩の世界が紹介される日が来るとは感慨深いです。日本における古代ギリシア詩の受容史に記されるべき一冊だと思います。
 
ところで書籍版『うたえ!エーリンナ』収録の後日談では、美青年になったリュコスは相変わらず崇拝者に追いかけられており、「おれは男だ!」「念弟になるなんて気持ち悪い!」と虚勢を張っています。なんだか生きるのがつらそうです。メノーンはある男性の念弟になったことをリュコスに秘密にしています。「良い人を選べば気持ち悪くないのに」。メノーンはうまく念者念弟システムに適応できたわけですが、リュコスはそこに適応したくないのですね。美少年(美青年)として性的に消費されたくない男子がそこをつきぬけて立派なおとなになりたいあまりに強者としての規範を強く内面化した超男性をめざしてしまうとなればなかなかにつらい。ムーサの愛をうけて生きるものはジェンダーを超えて友となれるはずだ、と信じる心しなやかなエーリンナの友情がリュコスのかたくなさを打ち破る日は来るのでしょうか。

佐藤二葉さんのブログ「らくがきルーズリーフ」の「『うたえ!エーリンナ』によせて」もとてもよい文章です。よくぞ書いてくださった。みなさまぜひ。

futaba-amethyst.blogspot.jp

後日談や古典ギリシア文学もののまんがをもっと読みたいので二葉さんぜひがんばってください。楽しみにしています。

『うたえ!エーリンナ』には紙版と電子版があります。
こちらです。→