ホッキョクウサギ日誌

宗教史、宗教学、詩と短歌と文藝評論とその周辺をめぐるよもやまばなし。

遊園地書店の話

セレクトショップ型の書店に最初に行った時にはご祝儀で何か買って差し上げることもあるけど、行くたび行くたび微妙にかゆいところに手の届かない選書ばかりなのにお前はうちのおしゃれセレクションの顧客じゃない、お前の趣味は重いんだよと言われているような気分になって次第に足が遠のくこともあります。
私の場合は結局大規模書店に行ってしまいます。交通それなりの地域に住んでいるのでまだなんとかなっていますが、近くにマガジンスタンドかかゆいところに手の届かない選書のおしゃれセレクトショップ型書店しかなかったら見たいものを容易に実見できないフラストレーションがたまるでしょう。本屋がみんな雑誌屋さんやおしゃれセレクトショップばかりになっては困ります。
活字は人生の暇つぶしのためにだけあるのではないし、その種の書店では確かに買えないものがあります。遠出やネットショッピング必至。
ライフスタイル提案型書店って、客の側にも迷宮型テーマパークをその仕掛けや欠けも含めて鷹揚に楽しむ心身財の余裕を求めるところがありますね。六本木や銀座SIXや代官山の蔦屋さんは遊園地。すきあらば財布の紐を緩めさせようとするところも遊園地。元気なときやお財布のなかみが温かいときにはそこそこ楽しめますが、イベント以外ではあまり行かないし疲れているときには避けるようにしています。
入り口は多いに越したことはないけれど、書店としての役割を実直に果たす本屋にぜひがんばっていただきたいものです。
読者の内面に干渉せず売るべきものを売る書店だからこそ、客として書架のあいだをうろうろしてはときに安らげたりふるいたたされたりもして、思考をかき乱されずに本を買いに行くことができたりもします。ほかの分野への関心も広げてくれて、学生に読ませられそうな本や学術書や詩集詩論集を中味を見てから購入を検討できるような書店がありがたい。ジュンク堂さんがんばってください勿論教文館さんも紀伊國屋書店さんも。
そして専門書を的確に扱う書店のバイヤーに余人をもって代え難い眼力の主がいることが。そのような方々をくれぐれも大切にすべし。
 
私にも日々の憂鬱が深まりすぎて大規模書店や専門書店に行くのがつらい時期もありました。恣意的な配架とかゆいところに手の届かない選書のライフスタイル型提案型の書店が増えすぎると書店に行っても安らぎません。心身ともに不調の時には今以上に通販に頼らざるをえなくなるかも。
ライフスタイル提案型書店の書店員にも良心ある方はいらっしゃると思います。どうかご検討いただきたいと思います。
 
地域の公立図書館がアーカイヴ機能も学習施設機能も放棄して迷宮のごとき遊園地になる悲劇はこの上ないものです。

現代詩手帖2018年6月号『月に吠えらんねえ』特集に寄稿しました(2) なかにし担当分への追い書き

おかげさまで現代詩手帖月に吠えらんねえ』特集がよく売れているようです。ありがとうございます。中学生のときからの詩手帖読者ですが、こんなにフィーバーしている詩手帖をリアルタイムで見るのは初めてです。
さて、人物解説なかにし担当分の追い書きです。
今回は単行本既刊分8巻までを参照して書きました。

西脇順三郎は本作では喫茶店のマスター(カフェJUNマスター)として登場します。綺麗なティーカップを並べた明るく清潔な喫茶店です。詩の話をしていてもうるさがられないカフェーなので□街住人の憩いの場になっています。
1945年以前の西脇順三郎作品(『Ambarvalia』と『超現実主義詩論』)のほか、新倉俊一先生による一連の西脇の評伝や伊藤勲先生の初期西脇研究からわかる西脇像を擬人化すると確かに洋行帰りの瀟洒な紳士になるでしょう。慶應の理財科(現在の経済学部)に籍をおきながらウォルター・ペイターとニーチェを耽読してラテン語で卒論を書いた文学青年西脇、慶應の文学部のファカルティメンバーになってから(古英語・中世英語を学ぶ使命を負って)洋行してリアルタイムのモダニズムに興奮した文学青年西脇のおもかげがあります。西脇先生のご実家が新潟・小千谷で名を馳せた銀行家だったことも、世を忍ぶ仮のすがたを喫茶店の店主とする本作のカフェJUNマスターの設定に効いているかもしれません。
ところでカフェJUNマスターの容貌が西脇先生ご本人より私の宗教学師匠に似ているように思えるのは気のせいでしょうか(東大人文社会系研究科ウェブサイトに掲載された師匠のエッセイを読むとたしかにそこはかとなくモダニズム詩人気質であるのも感じられます)。『月に吠えらんねえ』のにしわき先生は近代市思想街あたりにコーシャーレストランももっていらっしゃるのでは、と思わず想像を逞しくしてしまいました。宗教学関係ユダヤ学関係のみなさんはぜひ『月に吠えらんねえ』1巻をチェックしてみてください。

折口信夫釈迢空)が本作では「釈先生」としてすこぶる素敵に描かれています。BBC制作の探偵ドラマで主役を張りそうな名推理ぶりもさることながら、お弟子さんたちの回想からしのばれる名教師ぶりの反映も大いに感じられます。愛情と教育的配慮の深さと「日本の詩歌の根」と怨恨にそそぐ洞察の鋭さの描写などじつに惚れ惚れします。8巻刊行以後のアフタヌーン本誌連載分ではさらに釈先生の「日本の詩歌の根」にかける思いが明らかになっています。2018年7月号掲載の50話では「人を深く思ふ神ありてもしものいはば我の如けむ」の境地に達しています。ますます目が離せません。
折口信夫を前にするとなにか辛辣なことを言わずにはいられない柳田國男とのハードボイルドな師弟関係も、ごく短い場面ながら釈先生とヤナギタ先生の描写にしっかり反映されています。
はるみくんは春洋さんの遺稿集『鵠が音』収録作品そのものの温厚篤実なお人柄です。
釈先生はるみくん推しの読者のみなさんに細やかに深く愛されるゆえんです。たっちゃん(堀辰雄)と並ぶ好人物です。
本作のたっちゃんは詩誌『四季』を率いて先輩からも後輩からも信頼される文壇きっての良識人として描かれています。実に頼もしい。西洋文学のはかなげな部分を愛する蒲柳の質の高原療養文学の書き手という通念がみごとに覆されて爽快です。堀辰雄リルケもじつは骨太な詩人なのです、そうは思いませんか?という声が聞こえてきそう。

犀さん(室生犀星)の人柄はやはり飄々とあたたかくチャーミング。商業作家になって成功してはみたけれどもういちど詩心を取り戻したい、と戦争空間に鎮魂の旅に出る設定が卓抜です。どんなに殺伐とした場面でも彼が出てくると読んでいてほっとします。本作で犀さんの顔がない理由のひとつには現実のご本人が容貌を気にしていたこともあっただろうか、とずっと思っていましたがどうやらそうではないようです。作劇上の要請とのこと、ますます興味を惹かれます。8巻になって小説街で住民票を得た犀さんの顔がようやく描かれます。萩原朔太郎北原白秋を共通の師とする大親友であったはずの犀星が商業作家になることに複雑な思いを抱いていましたから、朔くん(萩原朔太郎)視点の□街の世界で犀さんの顔が見えない設定になっているのは非常に納得のゆくところです。小説街での犀さんの顔立ちはハートフルでバランスたしかな犀星作品にふさわしい容貌だと思います。今後の動向が見逃せません。

今回の寄稿にあたって、三島由紀夫の晩年の作品と川端康成との往復書簡や、芥川龍之介キリシタンもの王朝ものを再読しました。
文壇の大御所になっても文章の世界では永遠に若く「美しい日本の私」でありたい川端康成とその作品のイメージも、美に殉じようとして生活そのものが演技となる晩年の三島由紀夫のたたずまいそのものも本作ではみごとにキャラクター化されています。「近代ゴリラ」の楯の会の軍装と舞台化粧風のノーズシャドウと目張りでもうこの人デンジャラスな人だなって一目でわかります。
作中の龍くんは芥川作品のあの怜悧で端正でほのかにセンシュアルな文体そのもののキャラクターです。BBCシャーロックのアイリーン・アドラーのことばを借りれば「頭脳明晰ってセクシー」。霊体なだけに作中世界の時間構造や時空のゆがみへの洞察もひとなみはずれて鋭いのです。朔くん相手にこぼす「小説家の世界は陰険だ、学者の世界はもっと陰険なんだろう、僕は詩の世界が良い」のことばに思わずうなずいてしまいます。詩人気質と秀才気質のあいだで葛藤しつつもときどきお茶目な一面を見せるところなどじつに味わいぶかいです。龍くん頭脳明晰でセクシーですね、って言ったら、頭脳明晰がセクシーなら□街の謎をほどくためにけふこ君もいっしょに考えなさい!脳みそを全回転させて考えなさい!って言われそうです。なお、本作では河童はいまのところでてきません。

車掌さん/ケンジ(宮澤賢治)のプロファイリングは腕のみせどころでした。
なんといっても私にとっては母方の郷土の偉人・賢治先生です。小中学生の頃、一関で高校の国語教師をしていた伯母につれられてよく夏休みに賢治・啄木・光太郎史跡詣でをしたものです。やはりサイエンティストでもあった農村改良運動家としての印象が私には強く残っています。
本作の車掌さんは「狸の車掌を着た過去の□街の神さま」です。チューヤくん(中原中也)の後に「□街の神さま」になったケンジは何らかの理由で「神さま」を降り、いまは主人公の朔くん(萩原朔太郎)が持て余し気味に「神さま」を引きうけていることがわかります。
ここで想起されるのは戦後詩史のなかの詩の理想像の変遷と中原中也宮澤賢治萩原朔太郎への回顧です。無垢で無頼な青春詩の範型。人知れず宇宙的なスケールの詩を書き明るい未来を幻視する農村の聖者。すべての実験が尽きてしまった後に召喚される誰よりもラディカルな「現代詩の母」。三人ともいずれも戦争詩との距離のある人々です。どんなに生前人気のあった名匠でも、ひとたび戦争詩に職人芸を発揮してしまった人は「神さま」にはなれない。白さん(北原白秋)やミヨシくん(三好達治)やコタローくん(高村光太郎)も、最晩年に日本浪漫派に傾倒したミッチーくん(立原道造)も「神さま」にはなれないのです。□街の外にいる不特定多数の読者による詩と詩人の理想像が「神さま」の人選に反映されているであろうことは容易に想起できます。
(50話での釈先生による「□街の神さま」選出機構の解釈を見る限りでは、「不特定多数の読者による詩と詩人の理想像」とは言い切れないようです。今後の動向がますます気になります)
朔くんが遭遇する過去の□街での「農村の詩の聖者」ケンジの描写には、1990年代から2000年代前半くらいのファンシーなスピリチュアル系賢治受容とその観光的商業的利用への鋭い批評が反映されています。思わず唸りました。過去の□街では、詩人たちは見るからにファンシーでキッチュな意匠の動物のかぶりものをかぶり、聖者とともに無記名の痛みなき優しさと癒しの歌をともに歌っています(動物のかぶりもののタッチが作中で朔くんやミヨシくんや白さんにつきまとうワナビー詩人の涼貴乃我有さんの作画に似ているのもツボ)。そんな詩人たちの姿を見たケンジは「こんなはずではなかった。私の宇宙意識はこんなものをめざしてはいない」と衝撃を受け、朔くんは「これは地獄だ」と呟きます。宮澤賢治のいう「ほんとうのしあわせ」はここにはないのです。
この場面の「宗教性」の描写は、日本語現代詩史における「宗教的な詩」「形而上詩」の受容をめぐる困難のかたちを明確に切り取っています。清家さんうまい。またも唸ってしまいます。人知れず森羅万象につらなる詩を書いた詩人を必要以上に聖者視するのも、詩人たちに無名性匿名性に殉じて誰もが安心する無憂の無痛世界の歌を歌えと強いるのも、やはり大量動員の詩学へのじゅうぶんな反省を欠く土壌に現れる現象であるでしょう。Not religious, but spiritualを標榜する読者に対しても、詩歌のなかにあらゆるかたちの「聖性」を見出してあたかも現代の祈りの歌であるかのように思いなすよう勧める「趣味の審判者」もこの困難からは自由ではないでしょう。
近代岩手の貧しさと困難につらなる現在を「イーハトーヴ」の名のもとに優しくやわらかく覆う観光戦略と、ひたすらに柔和な聖者のような賢治像を理想化する『賢治の学校』的なものにいわくいいがたい思いを抱えるみなさんも必見です。東日本大震災以後の癒しと涙の詩に疑問を覚えるみなさんも必見です。
「□街の神さま」を降りたケンジは『銀河鉄道999』の車掌さん風の制服を着て近代市の諸街区を結ぶ環状鉄道に添乗するたぬきになるのですが、この造型がやはり卓抜です。外界への脱出方法をどうやら彼は知っているらしい。熱く危険でラディカルな世直しへの思いを透明な幻想の宇宙誌と郷土誌につつみ、動植物寓話のかぶりものをかぶって韜晦する賢治の作品世界がみごとに反映されています。

「神さま」システムと近代市の時間構造、犀さんの顔、釈先生とはるみくん。清家雪子さんの前作『まじめな時間』にでてくる怨霊によく似た黒々としたなにか(縊死体でも「ひのもと」の弟たちでもあるなにか)。これらについてはぜひそのうちしっかり論じたいです。交通事故で亡くなった女子高校生を主人公に、成仏まえの霊体のいる中間的な他界を描いた『まじめな時間』もとてもおもしろいですよ!

月に吠えらんねえ』公式アカウントでの清家雪子さんからの現代詩手帖月に吠えらんねえ』特集へのメッセージはこちらです。細やかなお気遣いありがとうございます。詩についての散文を書いても漢字名前で言及されることが多かったきょうこのごろ、ひらがななまえで言及いただいたのはほんとうに久しぶりです。とても嬉しいです。
(清家さんは日本史専攻から創作活動に転じられたとのこと、そこはかとなく親近感を抱いております)
今後の展開がとても楽しみです。ますます心して拝読してまいります。

とても一冊では論じきれないお話ですし、アフタヌーン本誌でもどんどん物語が動いているようですので、特集第二弾があればとても嬉しいです。
https://twitter.com/hoerannee/status/1000753851396337664https://twitter.com/hoerannee/status/1000753851396337664

現代詩手帖2018年6月号「『月に吠えらんねえ』の世界」に寄稿しました

現代詩手帖6月号『月に吠えらんねえ』特集に寄稿しました。
清家雪子さん作のまんが『月に吠えらんねえ』の主題は日本近代詩歌と戦争。1945年8月15日から後の時空に行けない「近代市□街」に閉じ込められた詩人たちの物語です。
各作家の人となりと作品世界・教育史も含めた受容史から喚起されるイメージをぎゅっと凝縮した擬人像むれなす群像劇の傑作です。21世紀の女性作家にとっては異文化でもある旧制高校教養文化への批評の物語としても興味深く読めます。考証たしかでイメージの飛翔も豊か、若い人たちにとっての文学への問いと広義の古典の入り口になるイラストレイテッド・ノヴェルのなかでは出色の作品だと思います。
文豪をイラストレイテッド・ノヴェルで描くには絵がいのちです。映画的な構図とともに東洋の成人男性の肉体をリアリティをこめて美しく描けるってすばらしい。

今回の特集では清家雪子さんの書き下ろし8頁と昨年の前橋文学館での萩原朔実さんとの対談も再録されています。
特集への寄稿者それぞれの意気込みと愛にあふれる一冊で、こんなにアツい現代詩手帖はなかなかありません。
人物紹介だけでも執筆陣のなみなみならぬ気合を感じます。
萩原朔太郎研究会のみなさまの深い洞察に貫かれてたのしそうでしかも勉強になる座談会と藤井貞和先生のオリグチズムあふれるあたたかなエールに胸打たれます。

www.shichosha.co.jp
私は登場人物紹介を一部担当しています。

犀(室生犀星
カフェJUNマスター(西脇順三郎
車掌さん・ケンジ(宮澤賢治
釈先生(釈迢空折口信夫
はるみくん(折口春洋(旧姓藤井))
龍くん(芥川龍之介
カワバタくん(川端康成
たっちゃん(堀辰雄
近代ゴリラ(三島由紀夫
ヤナギタ先生(柳田國男

西脇先生、賢治先生、釈先生に春洋さんに柳田先生、犀星先生、いずれも詩的恩義のある方々ばかり。芥川龍之介川端康成堀辰雄三島由紀夫のお四方は偉大な先輩です。
清家さん、釈先生とはるみくんをすこぶる素敵に描いてくださってほんとうにありがとうございます。
芥川龍之介の文体そのものの作中世界の龍くん。BBCシャーロックのアイリーン・アドラーのことばを借りれば「頭脳明晰ってセクシー」。秀才気質と詩才のあいだで揺れるほんのりお茶目さんキャラなのがじつにいいかんじです。
追い書きは別エントリで!

月に吠えらんねえ』には改めてしっかりと紙幅を割いて論じたい題材があふれています。宗教学者としては腕が大いに鳴ります。今後の展開がますます楽しみです。
ほんとうにたのしい仕事でした。ありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

Amazonこちら。hontoはこちら紀伊國屋書店ウェブストアはこちら
もしかすると直接思潮社に注文されるのが早いかもしれません。みなさんぜひ読みましょう。

『うたえ!エーリンナ』をよみました

佐藤二葉さんから『うたえ!エーリンナ』をご恵投いただきました。
ありがとうございます。
佐藤二葉さんは総合ギリシア劇を手がける21世紀のバッケー的存在です。
星海社のまんがウェブマガジン「ツイ4」に連載された4コマまんが連作の書籍化です。
ツイ4のサイトはこちら。
紀元前4世紀の女性詩人に、エーリンナという人がいます。『ギリシア詞華集』に収録されたエピグラム3篇と、夭逝した親友バウキスへの思いを英雄叙事詩の韻律ダクテュリコス・ヘクサメトロスでうたいあげた詩「糸巻棒」(現在は断片で残存)で知られた人です。
 
はるか後代のビザンツ帝国期(10世紀)の『スーダ事典』にも立項されている人ですが、ここにはなんと〈エーリンナはサッポーと同時代人だった〉という説がでてきます。
現代では異説として否定されていますが、もしほんとうにそうだったらきっと鮮やかな詩魂の交歓があったはず…
その想定のもとに紀元前6世紀のレスボス島を舞台として、サッポーの学校に学ぶエーリンナと学友たちの詩人修行/花嫁修業群像を描いた快作です。考証も確かで、紀元前6世紀の社会と現在の人間観や社会規範との違いを現代人に考えさせるように描く配慮も備わった作品ですので、学校でも安心して推薦できます。構成も巧みで、芸術論・ジェンダー論の観点からみても興味深い作品です。
 
古代ギリシアの社会はたいへんにジェンダー役割分業のきびしい社会でした。公的な場に出られるのは自由人男性だけ。女性にはよき主婦として家政の裏方を司り、家で糸をつむぎ、機を織り、そしてなにより多産であることが求められていました。
年頃の少女たちにも少年たちと同様に教育を受ける機会がありましたが、その目的はやはり可能な限りよいお家に嫁いでよき花嫁になること。よき花嫁になるためには同年配の男子とは話してはいけない(自由恋愛などご法度)。詩歌や竪琴の演奏を学ぶのも花嫁修業の一環でした。
 
詩歌の社会的地位が高い時代でした。詩歌は神々の霊感を受けて作るもの、神々への捧げものとして歌われるもの、スポークン・ワーズとして共有されるものだった時代です。
物語はレスボス島でのアゴーン(朗唱・合唱上演を前提とした詩歌コンクール)に向けての傾向と対策と練習を軸に進んでゆきますが、当時の詩歌をめぐる状況と上演に向けての練習への洞察やパフォーマー心理の描写に佐藤二葉さんの俳優ならではの視点が光ります。
芸術家の先輩としてよき教育的配慮をもって生徒たちに接するサッポー先生もアルカイオス先生も魅力的ですし、サッポー先生の学校の生徒さんたちも年相応のいろいろを抱えつつもチャーミングです。
エーリンナが天真爛漫そうに見えて、社会に順応した少女として生きるにはさまざまなつらさを抱えたキャラクターに描かれているのが味わい深い。
サッポー先生の学校に花嫁修行のために入学したエーリンナの心の奥底には人知れず燃える野望がありました。
サッポー先生に詩を習って、いつか最高の詩人になって歴史に爪痕を残したい。
ムーサに魅入られた者の
目を通して社会の諸矛盾が見えてきます。
サッポー先生が紡織と詩歌の類似点を語ってエーリンナに(こんな社会のなかでも)女性が生きる喜びを伝え、よいお嫁さんになりたい
同輩たちがアゴーンに向けて心をひらいてゆく様子も説得力があります。
良家の娘で美人で家事全般おおいに得意でよいお嫁さんになりたい古代ギリシアのパーフェクトガール、バウキスが、はじめは謎の同輩だったエーリンナと友情を紡いでゆく様子もほほえましい。女性どうしの友愛のモティーフが細やかに描かれていて胸打たれます。日本のマンセントリックな社会のなかにもひっそり息づく女性の友情に支えられてきた経験の多いものとしては嬉しくよみました。
 
ここでアルカイオス先生の弟子で歌の上手い美少年リュコスをエーリンナのライバルに配したのも絶妙です。
リュコスは当時の家父長制的な価値観をがっちり内面化した早熟な少年です。リュコスは自信家さんですが、自称念者候補の年長者にもててもてて困る自分をもてあまし、やがては家業を継がなければならない未来をもてあまして、エーリンナという突如現れた技芸のわかりそうな女性のライバルにそれはそれは尊大に接してつらくあたります。リュコスの友人メノーンが比較的社会に順応した少年として描かれているだけに、リュコスの立ち居振る舞いを通して、女性を対等な存在として見ることを少年たちに教えない社会や、なにかと美化されやすい古代ギリシアの念者念弟システムの不条理も浮かび上がります。
ほがらかに先生や先輩に秘訣を教わり、親友に支えられていても、情熱だけでは突破できない状況がつづくエーリンナ。技芸にすぐれた少年には敬愛の念を受けとめてもらえるどころか、彼女の父親や兄などの世の多くの男性と同じように「女のくせに人前で歌うなんて生意気だ」とさんざん冷たい言葉を浴びせられる。だんだん人前で歌うことや詩歌にかかわることじたいへの恐怖を心のなかに植え付けられてゆきます。当日の舞台でひるんでしまうエーリンナの思いはおそらく21世紀の私たちもどこかで体験したことがあるものかもしれません。
 
デウス・エクス・マキナは出てきませんが、アゴーンの審査結果は爽やかです。蜜のような声でつむがれる歌を神がお喜びになった。ムーサイに微笑まれた人はその微笑みを受けて生きよう。このメッセージには21世紀のバッケーの祈りが籠められています。

西洋古典学を専攻した女性の描き手によるなつかしい絵柄のチャーミングでラヴリーなまんがで古代ギリシア抒情詩の世界が紹介される日が来るとは感慨深いです。日本における古代ギリシア詩の受容史に記されるべき一冊だと思います。
 
ところで書籍版『うたえ!エーリンナ』収録の後日談では、美青年になったリュコスは相変わらず崇拝者に追いかけられており、「おれは男だ!」「念弟になるなんて気持ち悪い!」と虚勢を張っています。なんだか生きるのがつらそうです。メノーンはある男性の念弟になったことをリュコスに秘密にしています。「良い人を選べば気持ち悪くないのに」。メノーンはうまく念者念弟システムに適応できたわけですが、リュコスはそこに適応したくないのですね。美少年(美青年)として性的に消費されたくない男子がそこをつきぬけて立派なおとなになりたいあまりに強者としての規範を強く内面化した超男性をめざしてしまうとなればなかなかにつらい。ムーサの愛をうけて生きるものはジェンダーを超えて友となれるはずだ、と信じる心しなやかなエーリンナの友情がリュコスのかたくなさを打ち破る日は来るのでしょうか。

佐藤二葉さんのブログ「らくがきルーズリーフ」の「『うたえ!エーリンナ』によせて」もとてもよい文章です。よくぞ書いてくださった。みなさまぜひ。

futaba-amethyst.blogspot.jp

後日談や古典ギリシア文学もののまんがをもっと読みたいので二葉さんぜひがんばってください。楽しみにしています。

『うたえ!エーリンナ』には紙版と電子版があります。
こちらです。→

 

ユリイカ2018年5月号『特集 アーシュラ・K・ル=グウィンの世界』に寄稿しました。

ユリイカ2018年5月号『特集 アーシュラ・K・ル=グウィンの世界』に論考「アーシュラ・K・ル=グウィンと文藝共和国の夢 「西のはての年代記」三部作と『ラウィーニア』の場合」を寄稿しました。

若い頃ルネサンス学者をめざしたこともあったル=グウィンは最晩年に叙事詩的な世界と古典に沈潜します。そこで彼女が掬い上げた少年少女の成長物語を通して見た信念の器としての詩歌の賜物とは。物語に籠められた祈りと願いとはなにか。そのようなことを考えました。

書影と目次はこちらから。ル=グウィンさんの笑顔のポートレイトが輝くようです。
大好きな作家について書いてすばらしいメンバーとともに追悼特集号にのるよ、とティーンエイジャーの自分におしえてやりたいです。感謝。

青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2018年5月号 特集=アーシュラ・K・ル=グウィンの世界


電子版もあります。連休のおともにぜひ。
→こちら。

 

なお、2006年のユリイカ ル=グウィン特集もまだ買えるようです。
Amazonではときどきプレミアがついています。定価で買えるところを探してみてください。

「精神医療と音楽の歴史」レポート(2017.9.16)

古楽の話ではこちらもどうぞ。
昨年9月16日に松沢病院で開催された公開講演会(レクチャーコンサート)「精神医療と音楽の歴史」のレポートを「医学史と社会の対話」研究プロジェクトのウェブサイトに寄稿しました。
光平有希さんによる講演「精神医療と音楽 再現演奏でたどる戦前期松沢病院音楽療法」と松本直美さんによる講演「愛に狂った者たちの歌」の二部構成の会でした。
執筆の機会をくださった慶應義塾大学の鈴木晃仁先生と「医学史と社会の対話」研究プロジェクトのみなさまありがとうございました。

igakushitosyakai.jp

「医学史と社会の対話」研究プロジェクトではこのほかにも啓発的な企画がさまざまに展開されています。ぜひウェブサイトをごらんください。

igakushitosyakai.jp

小澤高志さん追悼・ルネサンス大舞踏会に行ってきました(4.15)

こちらではたいへんごぶさたしておりました。そろそろこちらでも有機的にツイッターフェイスブックとの連動運用を心がけてみたいと思いまして、戻って参りました。
およそ一年ぶりとなりました。みなさまのご期待に応えてホッキョクウサギ日誌を再開します。まずは古楽の話からです。
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4月15日、小澤高志さん追悼ルネサンス大舞踏会に一般参加者として踊りにいってまいりました。昨年四月に急逝された日本の西洋古典舞踊家の草分けの追悼の会です。
小澤さんとは生前、古楽のご縁をいただいておりました。
昭和のホワイトキューブ空間・日暮里ラングウッドホテル内サニーホール(大ホール)がダンスフロアになっていました。
故人にゆかりのあったプロフェッショナルの舞踏家と師事歴長いお弟子さんたちによる16世紀・15世紀舞踊の献舞と、2回の事前練習会(ワークショップ)に出席した一般参加者も加わっての「大舞踏会」の三部構成でしたが、ここではおもに私も参加した第三部の感想を書きます。当日あいにく貧血気味で献舞をしっかり見られなかったのがかえすがえすも残念です。
プロフェッショナルの舞踊家や師事歴長いお弟子さんたちから、私のような踊りはあまり得意でない超初心者まで、故人が結んだ縁につらなる人々を可能な限り多く集めて一緒に踊る企画だったのがたいへんよかった。故人が愛した古典舞踊の核にある踊る喜びを体験しようとの趣旨で、故人のあたたかく懐の深いお人柄を彷彿とさせる会でした。ダンスマスターの武田牧子先生、主催者のみなさま、ご遺族のみなさまの大英断あってこその会だったと思います。
ともかくもバンドメンバーが超豪華。ヒストリカル編成で考えられる限りの大編成で、素朴な音色で典雅にして剛毅な音楽が立ちのぼるのが実にたのしい。なかでもアンジェリコのサックバット隊と立岩潤三さんのパーカッションが最高です。斉藤ひとみさんのハープと佐藤駿太さんのヴァイオリンが間近で聴けたのも素敵でした。

スポーティな現代装で参加できるダンスのワークショップとは違って、観覧者も入っての古典舞踊の会ですから、一般参加者としてもやはり衣裳の準備が思案のしどころでした。
私は今後着る機会があるかどうかわからないルネサンス衣裳を創る決断がつかず、手持ちのシビラのシフォンのマキシ丈スカートを裳部分に、クラスカのシルクのプルオーヴァーをトゥニカ部分にして、歌詞翻訳の謝礼でいただいたシフォンのロングストールをトガのように羽織って簡易古代末期装にし、文藝復興へのオマージュを衣裳で表現したつもりで参加しました。なんだNにし結局古代ローマ人なんじゃん、というツッコミはなしで!婦人服のシルエット自体は4世紀から12世紀くらいまでわりとざっくりとこうAラインですよね(ざっくりしすぎ)。
女性陣にはまさに本気!の貴婦人風時代装束のかたも大勢いらっしゃり、13世紀スタイルから1950年代スタイルまで各時代楽しめて実に眼福でした。19世紀スタイルではスチームパンクや『大草原の小さな家』の晴れ着風の方も。ドレス文化のない日本で20代のみなさんが手持ちの現代装ワードローブから衣裳を工夫して参加していたのも印象に残りました。みんなけなげだ、これからたくさん工夫の余地があるよ、と思わず涙が出そうになりました。もちろん気合いの入った自作の方も。18世紀ドレス自作のかたとエメラルドの魔女風自作衣裳のかたに制作の秘密をうかがってみたかったです。
小澤さんのおくさまの黒いローブ姿は威厳があってとってもエレガントでした。舞台前方に花とともに椅子の上に打ちかけてあった小澤さん遺品の帽子とお衣装とペアだったのですね。しみじみしました。
男性陣・男装陣では本気の時代装束の方から吟遊詩人コスの方や現代装束のかたまでいろいろで興味深かったです。
武田牧子先生の男装もすっごく軽やかでチャーミング。サフランイエローのダブレットとキュロットにサフランパープルの短いマントでさすがプロフェッショナル。思わず女性参加者で先生を囲んで「先生かわいい~」を連発してしまいました。自分が女学生マインドをもったまま中年になってしまった人であることを実感。
ヘンリー八世風装束一式をお召しの歴史ずき風の方もおいででした。なにより印象的なのは古典舞踊家・聖笙和先生の衣裳と舞台化粧と挙措までばっちり決まって現身の世界にふわっと浮き出てきたダンスの妖精のようなたたずまいでした。
普段モダン楽器中心に活動していて服飾がすきで現代装のボールルームガウンに飽き足りない者としてはめくるめく世界の扉をあけてしまったような気持ちになりました。婦人ものの時代装束がともかく絢爛豪華で男装のたのしみもある。自作なさるかたもいらっしゃるそうです。さらに衣裳事情が知りたくなりました。
今回のレパートリーはパヴァーヌアルマンド・ガイヤルド・ブランル・ファランドールの基本形とその応用で、踊り自体の動作ひとつひとつはそんなに難しくないですし、踊ってはじめて西洋音楽史上のさまざまなレパートリーとの結びつきが体感される点も多かったです。踊りは地元の盆踊りと高校のダンスの授業以来かもしれない私でもわりとたのしく踊れました。
たとえば最後のファランドールで横に手をつないで列がぐるぐるとぐろを巻いたりほどいたり列の先頭のダンサーがつないだ手と手の下をくぐったりするのもじつにたのしい。一度手を離すとどこへ行ってしまうかわからない踊りでもあって、なるほどあのビゼーカルメン》の《ファランドール》にはそんな含意もあるのかと改めて驚きました。ラヴェル《亡き王女のためのパヴァーヌ》もきっとあのテンポでじっさいにステップ踏んで踊れるはずなので機会があれば試してみたいです。
ただ、お手本を一回見ただけで的確にステップと振り付けを覚えて宮廷舞踊にふさわしい貴族的な挙措を身につけるにはそれなりの身体能力と自主練習と強いなりきりの力が必要だと感じました。舞踏譜が読めるようになると分析的に振り付けをとらえることができるようになって練習の効率が変わってきそうです。詩の韻律と踊りのリズムのつながりにもアンテナをはっておきたいところです。
参加者の男女比は3:7くらい、女性陣はプロフェッショナルの舞踏家・音楽業界人・古楽愛好家、男性陣は音楽業界人・プロフェッショナルの舞踏家・長年の夫婦でダンスファン・古楽愛好家(と歴史ずき)という感じの環境でした。日本の儒教的に男女別文化がくっきりわかれた慌ただしい日常から瞬時にルネサンスの宮廷貴族文化に脳内タイムスリップするにはやはり貴種流離譚を内面化するなりきりの力がものを言いそうでした。
ルネサンス装束を日本人がつけて典雅な所作で踊るデモンストレーションにはまったく違和感がなく、たしかにキリシタンの世紀に西洋の文物がまさに日本に上陸したのだな、と腑に落ちるところも多々ありました。古典舞踊は西洋文化を理解するにもたいへん有益なのでぜひ同僚の中世学者・ルネサンス学者のみなさんにもお勧めしたいところですが、今回は武田先生と主催者・ご遺族のみなさまのあたたかいご配慮で初めて踊る人のためにも参入障壁を下げてくださったのだな、と胸に染みて理解できるところもありました。踊るのはほんとうにたのしいのでもっと参入障壁が下がるといいですね。
たとえばブリューゲルの農民の踊りを追体験する会とか死に神装束を着て集まってハロウィンにダンス・マカーブルを踊ってみる会があったら参加してみたいですね。
ともかく自主練セットでの1回か2回のお稽古ではなにかと至らない点も多い私のような初心者の踊り手も温かく迎えてくださったことに感謝します。お作法や礼法への洞察はきっと踊るうちに深まるのでしょう。私レベルでも行ける講習会があるのなら今後もぜひ習ってみたい、踊ってみたいと思います。良い経験になりました。
たくさんのひとのあいだに古楽と踊りの縁をむすんでくださった小澤高志さんに感謝と拍手をささげたいと思います。