読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ホッキョクウサギ日誌

古代末期地中海世界の宗教史、宗教学、詩と短歌と文藝評論とその周辺をめぐるよもやまばなし。

マーティン・スコセッシ《沈黙》を見に行きました

もう一ヶ月以上前のことになりますが、マーティン・スコセッシ《沈黙》を見に行きました。
遠藤周作の原作に対する深い理解と、モデルとなったジュゼッペ・キアラ神父(作中ではロドリゴ神父)とクリストヴァン・フェレイラ神父の棄教と日本での余生をめぐる確かな考証にもとづく解釈がもたらした傑作です。キリシタン史考証・監修にはレンゾ・デ・ルカ神父(長崎・日本二十六聖人記念館館長)が、日本語版字幕監修には川村信三神父があたっています。
ロケ地は台北周辺と太秦撮影所とのこと。台湾の映画産業の隆盛を思います。長崎の風光とはまた異なる亜熱帯のダイナミックな植生がむせるような湿度と温度を感じさせない彩度を抑えた映像で撮影されており、超絶技巧の写実描写で描かれた山水図のような趣をかもしだします。お白州はもちろん、江戸のキリシタン屋敷などの室内場面の映像と照明には歌舞伎の舞台のような様式美と清潔感があります。日本の伝統演劇と映画へのオマージュもふんだんに盛り込まれたカメラワークと、自然音を生かして可能な限り音量を絞った寡黙な音楽も印象的です。現代曲(日本のカトリック界を代表するシーリアス・ミュージックの作曲家となった細川俊夫の作品を起用)、自然音、聖歌やオラショ、祭囃子の使い方にも節度があります。自然音だけで聴かせるエンドロールは最後までご覧になることをおすすめします。
このクールな映像と音楽・音響には、遠藤周作作品の日本語に滲む、母の愛を乞うて乞うて乞い果ててときに暗い湿った部屋の片隅で膝をかかえてどうか突き放さないでくれるなと途方にくれてすねてみせる男児の涙のような湿度を捨象する効果もあります。徹底したリアリズムによる残虐場面の描写もなまなましくなりすぎません。映像と音楽の力でいやがうえにも節操なく観る者のヒロイックな感情を高揚させることも可能なテーマですが、その手には《沈黙》チームは乗らないのです。みごとな節度です。
なにしろ、英語に翻訳されたENDOHの世界です。湿って暗い部屋の片隅のような世界の果てで、涙が涸れるまで見棄てられたこどものように泣いて乞うても得られない「神の母性」の物語というよりも、魂の暗夜の時代に生きる人間の弱さとうらはらなしたたかさを見つめる雄渾なドラマがくっきりと切り取られています。現代のポスト世俗化社会の宗教と政治にも通じる諸問題を17世紀の宗教の危機を通して描いた作品になっています。



生涯不犯を誓い、自らの文化の優位と信仰を疑うことなく辺境の地に彼らの信じる「存在」の真理と希望と愛を説くカトリック宣教師の傲岸不遜。世俗の喜びを大肯定する風土に生きる日本の仏教徒のかたくなな誇り高さと武家の宗教に連なる自恃。両者は決して互いに譲らず、相互理解に踏み出す愛と勇気を示すこともなく、ときに相見えれば未知の脅威に対する無限の残酷さをむきだしにします。棄教してなお日本を「超越的な神の存在を知ろうとしない、自らの身近なものにひきつけて目にみえるものしか信じようとしない、すべてを根腐れさせる沼」と呼んではばからないフェレイラ神父の率直さと、この残酷さは表裏一体のものです。
武士の気まぐれで首をはねられる潜伏キリシタン。正義の美名に覆われた嗜虐趣味のあらわれにも見える処刑方法。辺境で愚直に殉教の栄光と美徳を信じて死んでゆく宣教師。虐げられ、傷つけられ、声をあらかじめ奪われた小さき者とともにいることを選んだがゆえに「転んだ」としてもそれだけでは許されず、世俗の喜びの大肯定をむねとする社会に同化させるために心に培いつづけた信仰を生涯を通して自ら否定せよと権力者から迫られるもと宣教師。世界のはてのかたすみにも神はきっと愛を注いで下さる、と信じるものたちの目の前にある悲惨な現実はゆらぐことはなく、弱き者たちが見殺しにされ、救霊の可能性などひとつも省みられることのない「魂の暗夜」は現代の社会にも、むろん教会のなかにもたしかに存在します。

トモギ村の潜伏信徒に接した宣教師が「信徒たちは目に見えるしるしをほしがります。少し危険な傾向だと思います」と師にあてた書簡で述懐する場面があります。
「目に見える徴」はこの映画の重要なライトモティーフでもあります。「踏み絵は形式」と割り切って像を通した敬愛の念の表出を放棄し、内面の信仰のみによって義とされる道を選んだら、離教という「逸脱」の道へ墜ちることになるかもしれない。その恐怖に怯える宣教師の姿からは、「教会の外に救いなし」を深く深く内面化したひとびとにとっては、やむにやまれぬ事情から信仰の外側に出ることも、分派の信仰に近づくことも底なしの恐怖であったことがまざまざと喚起されます。
日本の宗教的風土のなかにあるアニミズムフェティシズムを通してカトリックの信心業にひそむ「目に見える徴」へのフェティシズムを看破した結果、「踏み絵」という信心用品への目に見えるかたちでの冒瀆を迫る道具を生み出す心性は、カトリックの聖堂装飾や信心用具の破壊へ向かう宗教改革期のプロテスタント・イコノクラスムの心性とも相通じるものがあるのではないか、とまで考えさせられます。見知らぬ他者の用いる信心用具への警戒感と踏み絵を刑具に用いる感受性は、折節にキリスト教の歴史の中で頭をもたげる聖画像や聖人崇敬や信心用具に対するイコノクラスム的な疑念と相通じるものがあるでしょう。
いまここにある世俗の喜びの肯定をよきものだと信じ、破戒の修道士の偽善をするどく暴き出す井上筑後守の発言。生涯不犯の誓いを挫いて日本の社会に同化させるためにほかの罪で処刑された者の名と妻を与えられ、南蛮わたりの品々から十字の文様のあるものを排除せよと命じられる棄教以後の沢野忠庵=フェレイラと岡田三右衛門=ロドリゴの暮らしぶり。身の周りの世話をしつづけたキチジローに習い覚えた日本語で「ありがとう。いっしょにいてくれてありがとう」と語るロドリゴ。隠し持った信心用具を発見されてついに捕縛されるキチジロー。トモギ村の潜伏キリシタンからもらった素朴な十字架を信仰のよりどころとして掌に包んだまま座棺に収められて火葬されるロドリゴの最後。いずれも巧みな描写です。キリシタン時代の日本に根を下ろしたトリエント公会議の信仰がしだいに「形を求める信仰」の姿をあらわすさまと、17世紀の凄惨で残酷な相互の不寛容のなかで「魂の暗夜」が生活世界に析出する状況を視覚的に体感させます。そして、目に見えるしるしとはなにか、見る者に鋭く問いかけます。

脇役に至るまで芸達者で細やかな俳優の演技も見所たっぷりです。細やかな演技と重層感のある演出が作中世界をふくよかにふくらませ、作中世界のひとびとが私たちの遠い隣人であるかのようにさえ思わせます。
映画版LOTRのフロドさんを想起させるアンドルー・ガーフィールドロドリゴ神父。BBCの歴史ドラマシリーズ《Rome》でカエサルを演じたシアラン・ハインズ扮するヴァリニャーノ神父の史劇役者的重量感。一本気なガルペ神父を演じるアダム・ドライヴァーの痩身と富士額。リーアム・ニーソンが演じるフェレイラ神父の棄教してもなおあたたかな包容力。いずれもカトリックの聖職者のたたずまいをよく研究した演技であると思います。アンドルー・ガーフィールドはスタニラフスキーシステムで訓練した俳優で、アダム・ドライヴァーともどもウェールズイエズス会修道院での黙想会に参加し、霊操の指導も受けた上で徹底的に17世紀のイエズス会士役になりきる役作りをしたとのことです。
イッセー尾形は時代劇の悪代官演技の定型をもって井上筑後守を怪演しています。宣教師の手の内を読んで彼らの論理の欠陥を突き、バロック・スコラの時代のカトリック教理と実践のなかで日本の支配階級にとって納得できない部分をことこまかに暴き立て、排耶論を展開するじつに小憎らしい役どころなのですが、演技の型ゆえに小憎らしさにおかしみさえ生まれてくるところがまさに演劇の底知れなさです。浅野忠信は通詞を演じて、心の奥底をひとに悟らせない怜悧な文化外交インテリのたたずまいをかもしだします。
ピーター・ブルックに見いだされて世に出た名優にして演出家、笈田ヨシは村の潜伏キリシタンの長老を演じています。日本の伝統演劇と西洋の伝統演劇をふまえて、人間のいとなみの息づくふくよかな舞台を作る役者としてのたたずまいを体現する演技です。
窪塚洋介のキチジローには賛否あるようですが、私ははまり役だと思いました。蓬髪を振り乱す粗野と素朴、信仰を求める意志とうらはらな生きぬこうとするしたたかさと弱さを説得的に演じる役柄は、窪塚洋介のたたずまいにほのみえる剛毅さあってこそ勤まるものでしょう。何度も何度も転んでは告解を求めるキチジローに(あーこいつまたかよーおつとめだからしょーがねーなー)と思いながら素早く告解をきいてやるロドリゴ神父の苦虫をかみつぶしたような表情の演技まで拾う描写も細やかです。あの苦虫をかみつぶしたような笑顔は教会関係者には見覚えのあるものでしょう。
トモギ村の潜伏キリシタンのおばちゃん役で《やっぱり猫が好き》の猫姉妹長女・片桐はいりが出ています。「パードレ、コンヒサンばつかあしてください。コンヒサン。」とつとつとした英語から長崎弁に切り替わる機微を拾う演出も実に上手です。

「17世紀の日本で宣教師と日本人の共通語がポルトガル語のはずなのに作中世界でみんな英語をしゃべっている」問題は「ポルトガル語を英語に吹き替えたアメリカ映画」だと思ってみればあまり気にならないかもしれません。それにしてもジャパニーズイングリッシュがこれほどに堂々とスクリーンに躍動する映画があったでしょうか。英語の多様性への配慮もぬかりありません。

何度か見るとそのたびに考えが深まる作品でありましょう。原作と往還しながらまた見る機会があればと思います。

岡野弘彦『折口信夫の晩年』を読みました

たいへんごぶさたしておりました。みなさま新年度いかがおすごしでいらっしゃいますでしょうか。こちらには随時折口信夫とその周辺関係のゆるやかな読書日記をUPするコーナーを設けました。「折口信夫とその周辺」タグです。そこで本日のエントリです。


岡野弘彦折口信夫の晩年』(初出1969年、中公文庫版1977年)を入手しました。津の神職の家庭に育った青年が国文学を志し、学徒出陣をはさんで國學院大学に復学した昭和20年から胃癌で折口信夫が逝去する28年9月までの記録。やはり実作する学者の文章で、新倉俊一『評伝 西脇順三郎』に匹敵する傑作です。
折口信夫の晩年』は、国家神道の猛威ののちの荒野の時代にあって、「神道宗教化論」に立って真摯に神道という宗教の来し方と現在と未来を問おうとしていた折口自身の祭祀と民俗と鎮魂の日常的実践の記録でもあります。神職の血をひく国文学者・歌人として、神ならぬ神官としての天皇の存在意義や大きな声をもたないものや地域の無名の神官の祭祀に思いをはせ、戦争で最愛の門弟を失った悲傷と鎮魂に生きる折口信夫。その生活世界と日常的実践を記録する岡野弘彦の筆致には、地方の神職家庭出身者ならではの記録と鋭い洞察があります。それは国家神道の世界像のアーティフィシャルな底の浅さと神道非宗教説の限界を照射する視座でもあります。たんたんと描かれていますが、折口春洋記念祭の模様は鎮魂儀礼の案出の挿話としても圧巻です。

ところで加藤守雄『わが師折口信夫』(初出1967年、朝日文庫版1991年)では、肉体をもって愛の返礼を要求するクィア・ポエット折口先生エピソードがでてきましたが、本書ではそのような逸話への言及がありません。おそらくは社会人になってから師と再会した加藤先生の状況と、現役学生として師の家に寄宿するようになった岡野先生の状況の相違と、岡野先生自身が現役の國學院大學の教員だったころの著作であることも大きいでしょう。
折口信夫の晩年』では、書生に愛の交歓を迫るかわりに張り詰めたような性的禁欲を強い、(もうコカインを鼻につめていないとはいえ樟脳をかじったり辛みをいやましに加えた歯磨き粉を自作したりの)薬品オーバードーズ気味の生活と「ケガレ」を厭う潔癖症と子供っぽい気まぐれで起居をともにする人々を翻弄する折口信夫の暮らしぶりが精緻に描かれます。もちろん折節に含蓄ゆたかな言動で同居人たちを「ほうとした心」へ導くのですが、天衣無縫の異能の人と生活をともにする苦労もまたしのばれます。戦後の食糧難の時代にも美食家を貫く折口先生に応えるためにつねに家計はエンゲル係数高めで火の車。果実類を贈り物でいただいても、好意に応えて食べなければならないと思いつつ果物が苦手な折口先生、潔癖症なのに積んだまま腐らせてしまったりもして書生・岡野くんを驚かせます。
物静かで忍耐強い住み込みの家事手伝いの女性たちも、ときに女性恐怖をむきだしにする気まぐれな家主に仕える緊張感に耐えかねてか次々にやめてゆきます(なお、住み込みの書生と恋愛関係になったり、折口先生が好きすぎて折口夫人になろうという気を起こしたのを先生本人に気取られたりしたら即解雇。厳しいですね)。なかでも春洋さんの教え子の婚約者で折口邸に太平洋戦争末期から住み込んでいた乾民子さんのエピソードが胸にしみます。戦中戦後の混乱のなかでけんめいに白米を蓄えて折口邸の生活に貢献した彼女も、ついに折口先生の気まぐれに耐えかねて郵便受けのなかに小麦粉でこねた団子を三つ供えて出奔してしまうのです。
折口邸に住み込んで晩年の家政を助けた矢野花子さんや、穂積生荻さんをはじめ折口邸を訪ねる忠実な女性の弟子たちにも容赦なく気まぐれをもって応じる折口先生です。穂積生荻さんが大石出石町の家の庭に植えた芝桜を「穂積草」と呼び、「穂積草は君に似て我の強い草だねえ」と言ってみたり、矢野花子さんにも折りに触れてやつあたりします。昭和初期の女性の強さと忍耐に思いをはせざるをえません。
穂積生荻『執深くあれ』は井村君江日夏耿之介の世界』に通ずる昭和のボーイズランドの特権意識と閉鎖性を暴く著作でもありましたが、矢野花子さんや乾民子さんの回想録があったらぜひ読んでみたいです。まずは角川短歌創刊号の追悼特集でしょうか。
家の雰囲気は暗かったわけではない、折口先生の天衣無縫の性質と美食家健啖家ぶりが人をたのしませる側面もあった、との描写も印象的です。片栗掘り遠足や散歩のエピソードをはじめ、巨匠の巨匠なるゆえんをしみじみと伝えて同居人たちを「ほうとした心」に導く挿話も多々語られます。しかし、起居をともにする弟子たちの身になってみれば、師の強烈な存在に圧倒されているだけではとても日々の生活がたちゆきません。『折口信夫の晩年』は、ジョージ・スタイナー『師弟のまじわり(Lessons of the Masters) 』など顔色なからしめるような自我と自我のぶつかりあいエピソードに充ちています。鈴木金太郎さんや春洋さんには父を諌める息子のような強さがあった、ただ従順なだけでは長期的に起居をともにすることができなかった、という岡野先生の回想が示唆的です。反骨精神旺盛な人はもとより、天才に対して腫れ物に触るように接する人もたいへんに消耗するでしょう。なにより師の気まぐれとぶつかって書生を辞して去らなければならなかった痛みは生涯容易に割り切れることはないでしょう。かといってただ心酔しているだけでも師弟関係は続かない。巨大な才能にのみ込まれずに生きる強さというものを考えさせられます。
折口信夫の晩年』では、室生犀星一家がじつにいいバイプレイヤーぶりを発揮しています。『わが愛する詩人の伝記』にも登場するエピソードが折口信夫とその弟子の視点から描かれます。苦労人の犀星先生がひりひりはりつめる折口先生をいなして包容力ゆたかな発言をくりひろげると場面が和んでほっとします。
犀星先生の我儘をいさめるおくさまと朝子さんの様子を見た若き日の岡野先生が、生活から一切の女性の優しさと強さを拒絶しようとした折口信夫のくらしぶりに思いを馳せる場面がしみじみします。女性の存在を受け入れて暮らすことは、男性の強情や我儘に一方的に耐えることなくときにいなしたり諌めたりする存在とともに暮らすことでもあり、その結果として生活にふくよかなふくらみが生まれてくるけれど、折口信夫の生活にはそれがない。この省察は現在の男女比極端なゆえに女性に限りなく名誉男性化することを暗に強いる場所にも言えることでもあり、たいへん示唆的です。

最晩年の看取りエピソードが壮烈です。本書では西脇順三郎にお別れに行く話もちらっとでてきます。若き日の岡野先生は書生として、神経痛と胃癌の末期症状に苦しむ折口先生の介護生活に巻き込まれてゆきます。体調を少しでも楽にするために指圧を学び、髭をそってやり、献身的に働きます。男性の門弟が男性の師を介護する生活がさらりと描かれていますが、葬式代だけを残して常世へ旅立った師の死と遺品整理と鎮魂に至るシークエンスは、終末期の尊厳ある看取りと身近で切実な死者の記念と鎮魂という現代にも重い課題を示唆するものでもあります。弔問に来た先輩に「君たちはアプレだ。大アプレだ。先生をこんなにしてしまって」と叱られ、おろおろと火葬場の外の花壇でへたりこんでしまった若き日の岡野先生を、池田彌三郎が「しっかりしなさい」と励ましに来るエピソードと、折口邸の守り神として神棚に設置されていた津軽・金木町の河童像から魂を抜いて水を出石町の神社の池に返しに行くところなど号泣ポイントでした。
弟子のみた折口先生で本書けたら面白いかもしれません。まずは応用倫理学・死生学の論文を折口信夫の看取りと鎮魂エピソードで書きたいものです。さまざまにアイディアはふくらみます。先行研究おそらくないはずです。

ところで、おんなぎらいの教父は初期キリスト教やビザンティン文献で慣れているとはいえ、あまりに粗野なおんなぎらいをむき出しにされるとあーまた言ってるよ女でごめんなさいねー21世紀人はそのまま実行しないでね!と思う私ですが、折口信夫の文章の場合、自身のクィアジェンダー意識に向き合おうとしているところや内なる女性性をもてあましているところが感じられるだけ、鼻にコカイン詰めて書いているのだろうなと思える晦渋な部分を除けば、読むのはそれほど苦痛ではないです。現在以上にジェンダー役割分担の明確な社会のなかで、職能上超男性として生きざるをえなかった人が想念の世界では巫女となってみずからの内なる女性性を生き、日々の生活のなかではクローゼットからどうしてもはみだしてしまう。そんな人が身近に家政婦をおき、女性の門弟の訪問も許していたわけですから、折口信夫の内なる女性性と生活世界における女性恐怖の問題はもっとデリケートで多層的な問題であるように思われます。一刀両断に即断できない部分もあります。もうすこしさまざまに考えてみたいです。
『わが師折口信夫』と『折口信夫の晩年』で言及されるエピソードのなかには、現代の大学や文学の世界でも可視化されにくい場所に展開される年少の同業者に対する愛情と意欲の搾取や、現代の大学ならば間違いなくハラスメント委員会出動案件の挿話も多々あります。距離を持ってみればやんちゃでほほえましく映ることも、当事者にとってはつらいものだったりもすることもあるでしょう。巨匠のあまりある学識と詩への情熱と人間的魅力に惹かれるがゆえに、悪気のない日々のハラスメント的言動をなんとか受け流そうとする弟子たちの姿勢がじつに涙ぐましいのです。上下関係の厳しい業界で「目上」の横暴に耐えるひとびとにとってはそこが共感ポイントでもあります。大歌人による年少の同性の同業者に対する性的搾取の告発は、そして最晩年の大歌人の弟子に対する悪気のない気まぐれの回想は、初出時どのように読まれたのでしょうか。書評をさぐってみたいところです。

加藤守雄『わが師折口信夫』と岡野弘彦折口信夫の晩年』は、ジェンダースタディーズに関心のある人と折口信夫研究に詳しい人と読書会をしたい二冊です。その機会がとぼしいのでここに置いておきます。



師匠と学生のあいだの信頼にもとづく放牧体制で育った者としては、短歌と学問の巨匠と門弟のあいだの古風な師弟関係は神話的な別世界のようで非常に興味深いのです。折口信夫と私のようなものが実際に接したら好かれるかどうかはわからないのですが、彼の底なしの詩を真摯に生きるクィアな天才なところから目が離せません。あと10年生き永らえればベンジャミン・ブリテンとピーター・ピアーズの来日に遭遇できたでしょうし(1956年来日、《カーリュー・リヴァー》のほかに新しいNOHオペラだって生まれていたかも!)、なんとなればあと20年生き永らえればスウィンギン・トウキョウの寵児にもなり、みしまくんを見届けることもできたでしょう。1953年以降に折口信夫のいる世界線の日本文学史への想像がとまりません。
随時折口信夫とその周辺にかんする読書日記をこちらにUPします。続編を気長にお待ち下さい。

からだのシューレ・naoさん講演会に行ってきました(12/3・東京ウィメンズプラザ・加筆しました)

からだのシューレvol. 5 プラスサイズモデルnaoさん講演会に行ってきました。

公式告知はこちら。

【12/3・東京】からだのシューレvol.5 特別講演会「あなたのカラダは誰のもの?」 | eat 119

「からだのシューレ」は文化人類学者・磯野真穂さん司会、EAT119・林利香さん共催による、「食べる」ことと摂食障害と身体をめぐる諸問題を文化人類学の手法を用いて見つめるワークショップです。治ること、治すことを目的とせず、社会のなかにあるいろいろな考えかたの枠組みを浮かび上がらせ、意見を分かち合う会です。質疑応答タイムも充実です。


子供の頃から体型の悩みがあって「愛されていない」と思ってきたひとが思春期になって他律的な強迫観念としての痩身願望に陥り、いろいろな人との出会いから美貌の観念を相対化し、「受け入れられている」ことに気づいて、自分の肉体を回復するまでの過程のお話でした。
naoさんは聡明な人で、お話もおもしろい。聞いていてさまざまな発見がありました。「きちんとしている」はずのボーイフレンドに「君は変わらなければいけないよ」と酷薄な仕打ちを受けた話や、ティーンエイジャーの頃に友達と買い物に行っても着たい服がなくてやむなく男物の服をジーンズショップで買ってきていた話など、思わずもらい泣きしそうになりました。
まるで小学生のいじめっ子の価値観そのままに、公共の電波にのせてcurvyな人たちをおもしろおかしく見世物にするテレビのバラエティショーの制作意識の話題もありました。BBC摂食障害からの回復を主題に取材されてはじめて国内のテレビ局からバラエティショー以外の取材依頼が来るようになった、とのお話でした。
その経験から「他律的な痩身願望にもとづくダイエットを推奨するテレビの企画には出ない」とのこと、まさに慧眼です。
そうだよそんなもの出なくていいよ。

それにしても容姿と食と自己受容、愛情の問題に帰着させるには複雑な問題です。「きちんとしている人に認められたかった」も非常に身につまされました。

規範を体現する存在に認められたくて努力する人が、硬直した規範的な価値観ではもはや縛れない発想を自身が持っていることに気づいていないがゆえに、「きちんとした何か」に欠けを責められ、「君が変われば認めてやろう、まだまだ、まだまだ、いつになったら変わるんだ」と無限の変容を求められて、サディスティックで酷薄な扱いを受けて深く傷つく。それは恋愛に限ったことではないのです。
ひとはそこにあるだけで欠けも含めてその人として無二の存在としてパーフェクトであるのに、人をそんなふうに扱う何かははたして「きちんとして」いるのでしょうか。

常に値踏みされる側として生きてきたひとが言語化できない孤立感と混乱の中でふつうに食べられなくなることはおおいにありうる話でしょう。
「気のもちようですね」「気にしなければいいんじゃない」と記者や医者に言われて、それですむならこんなに苦しんではいない、と思った、というお話もありました。
そうだよほんとうにそうだよね。

naoさんがモデルとして活動している雑誌『ラ・ファーファ』は初めて見ました。さまざまな系統のスタイリングがのっているし、いままでなかった雑誌なのでぜひがんばっていただきたいですが、陽気で賑やかな紙面デザインや柔らかい布でボックスシルエットをつくるスタイリングを見ていると、curvyな人たちの服を「ぽちゃかわ」路線に閉じ込めてはほしくないな、とも感じました。
「女性はかわいく」「規格外の身体ならなおさら愛嬌を」という日本社会に隠然とあるジェンダー規範に縛られて「ぽちゃかわ」路線のスタイリングに流れるならそれはそれでとても根の深い問題だとも思う。「ぽちゃティヴ」のヴィジュアルも布が柔らかすぎる。もっとかっこよくしてあげてほしい。
ぜひここは日本の13号以上のサイズの服がふつうにしかもかっこよく存在する海外プラスサイズファッションの世界に大いに学んでいただきたい。日本のプラスサイズファッションの世界も10年前より格段に向上しているとはいえ、まだまだこれからです。
自分で技術を共有することによってかっこよく自分の着たい服を着るフィロソフィのあるCurvy Sewing Collectiveおもしろいですよ。

 40代以上のお洒落とならんで、既製服のサイズ問題はほんとうにポジティヴな身体イメージに関わる深刻な話題。サイズとデザインの多様化はブルーオーシャン

伊藤比呂美さんも『女の絶望』『女の一生』で、摂食障害からの脱出は「あたしがあたし」であることに気付けるかが鍵、と書いていらしたことなども思い出しました。

よい会であったと思います。

最近書いた詩歌・文藝評論関係の文章について

最近書いた詩歌・評論関係の文章についてお知らせします。

現代詩手帖』2016年9月号・特集「古典詩への誘い」に「叙景と引証とわたし、ある古代末期文学紹介の試み」を寄稿しました。
古代末期地中海世界ギリシア語文学・ラテン語文学の抒情と叙景と「私がたり」について、古代末期に取材した日本語現代詩における「学匠詩人」の系譜について書きました。
作曲家・チェンバリスト根本卓也氏への選詞協力についても書いています。
http://www.shichosha.co.jp/gendaishitecho/item_1705.html
この文章で言及したアンミアーヌスによる地震描写のテクストは『ユリアヌスの信仰世界』のプロローグでも引用しました。ぜひご覧下さい。

ユリイカ』2016年12月号「特集=『ファンタスティック・ビースト』と『ハリー・ポッター』の世界」に「夢みるひとの物語、醒めたるものの物語 ファンタジーと「宗教的なもの」についての試論」を寄稿しました。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2995
ポスト世俗化社会におけるファンタジー表象とファンタジー文学の機能と作家の職能、ファンタジーのなかのメディーヴァリズム(中世憧憬、中世回帰)表象と現代の宗教的・政治的メディーヴァリズムの現実との葛藤、「新しいヒューマニズム」の一側面としてのファンタジー表象との思いがけない出会いの可能性について書いています。
新しい芸風を切り開くきっかけをいただきました。ありがとうございます。

ユリイカ』の「《ファンタスティック・ビースト》と《ハリー・ポッター》の世界」特集は、J.K.ローリング作品の作品世界と映像化について主に文学研究者と映像研究者が的確かつ興味深い分析を寄せた大充実の一冊です。
井辻朱美さんと池澤春菜さんの対談、鏡リュウジさんによるクリスティナ・ハリントンさんインタビュー(西洋中世史家としてのアカデミックキャリアからソリッドで洞察の深いなおかつこわくないあやしくない魔法書店の店主へ)も面白いです。皆様ぜひお手にとってごらんください。

「スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチとの対話」に行ってきました(2016年11月25日・東大本郷、なかにしけふこのツイッター(@mmktn)より聴講メモを再録)

「スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチとの対話」に行ってきました。
(主催:東京大学大学院人文社会系研究科現代文芸論研究室、後援:日本ペンクラブ、協力:岩波書店・沼野科研)

公式告知はこちら。

20161125 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチとの対話

とても濃密な105分でした。
アレクシエーヴィチさんの包容力ある柔らかいアルトの声にこもる不屈の精神を感じました。
本郷の2限の時間帯でしたが、会場は超満員、立ち見も出ていました。
「きょうはアレクシエーヴィチさんに語れるだけ語っていただくのが司会者の使命です」。沼野充義先生による司会とオーガナイゼーションが見事でした。匠の技です。
同時通訳者は露日・日露2名、素晴らしい仕事でした。感服です。
聞き手の小野正嗣さんからの質問も、まさにそこがききたかった、とアレクシエーヴィチさんの著作の読者が思うポイントを的確に把握していてたいへんよかったです。

ツイッターに当日のリアルタイム聴講メモを放流しましたが、そのまま流れていってしまうのはもったいないのでこちらに収録します。ご本人も通訳の方ももっとすばらしい表現で語っておられた部分もありましたが、メモ書きでは充分にそのすばらしさがつたわらない憾みがあります。もっと詳しい聴講記をSNSで報告されている方もいらっしゃるかと思います。後から記憶で補足した部分もありますし、聞き落としなど至らない点もあるかと思いますが、ご参考になれば幸いです。

〈パート1〉
小野正嗣
少女時代はどのような少女だったか。小説ではなくノンフィクションを選んだのはなぜか。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 人生観は子供の時に形作られるもの。両親は村の学校の教師。私も村で育った(※ソ連時代の学校は小中高一貫)。大人になると人は大衆として似たような存在になるが、子供は一人一人独特の存在。
 両親が教師だったので書物がたくさん家庭にあった。自身も書物の人であると感じる。しかし、路上や戸外のことはより面白かった。女性たちが戦争体験について語っている場がとても印象的だった。女性たちは武勲について語らず、出征した男性の不在の日々や、出征当日の様子について語ってくれた。
 子供の頃は夏にウクライナの祖母のもとへ行っていた。祖母はメタファを用いて戦争を語った。それはホラーであると同時に、詩的な悲劇であると感じられた。
大学ではジャーナリズムを専攻し、実習では戦争についての聞き取り調査を行った。まだ人々の記憶のなかに戦争が生々しかったので、多くの体験談をきくことができたテーマだった。悪は善よりもはるかに芸術的であり、殺人にさえもクリエイティヴな喜びがあるという印象を受けた。
 戦争について聞き取り調査を行ううちに、男性は歴史に立脚して語っていて「歴史の人質」になっているが、女性たちの語りははるかに自由で、肉体的な生理(biology)と宇宙観(cosmos)に基づいて語っているように感じられた。男性は人間の苦しみについて語るが、女性たちは人間の苦しみ以外に、生き物や大地や植物の苦しみについても語っている。
 証言をまとめるとき、村で育った経験に助けられた。村の生活は自然と密接に結びついている。それと同時に、(わが国の)歴史は痛みの歴史である。
 戦争について「沈黙」はしていない。戦争についての本は先行例がたくさんあったが、私は違う時代の人間なので、それまでの本と時代のように冷たいヒロイズムには与さない。冷たいヒロイズムの特徴は、人間の命に価値はない、自分を大きなものに捧げることが大事という考え方。それは全体主義の特徴でもある。
 (インタビューのさいの)質問内容は私が関心を持っていることのみ。すでに尋ねられていること、アーカイヴ化された記憶を反復するような内容を繰り返し尋ねることはしない。時代の紋切り型、時代のバナールさから身を引き剥がすこと、時代のヒーローをそのようなぬかるみから引き剥がすことが必要。

小野正嗣
 あなた(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)の作品には文学を愛する人々が出てくるが、彼ら彼女らは本は無力だと語っている。文学が人生を教えてくれない状況がチェルノブイリ以降、1991年以降に登場した。それでも本を読まなければならない理由はなにか。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 ロシアの文化の中心には文学がある。ドイツでは音楽、イタリアでは建築があるようなものだ。ロシアの文化における言語中心主義を全体主義体制が用いた結果、ことばが絶大な権威を持ち、個人の人生に大きな影響を与えるようになった。他のものがみな閉ざされていたからだ。
 ソヴィエト時代には書物とは秘められた関係を築くことができた。閉ざされた世界の中で、書物とは一対一で相対することができたからである。1991年以降は世界の全てが私たちのところに押し寄せて来て、世界の一員であることを感じることができた。
 ソヴィエト時代では文学を読む人であること、その連帯感が作家の固有名詞に言及することで確認できたが、ソヴィエト崩壊後には趣味趣向によって人々は分断された。
 ソヴィエト時代には文学作品の書籍販売に行列ができたが、ペレストロイカ以降には西側世界のマテリアルカルチャーへの適応と体験が重視されたので、書物は後回しになった。本が唯一の情報源ではなくなったのであって、本が忘却されたわけではない。開かれた世界の中で情報源が多様になった。
 ペレストロイカ時代の思い出。ポーランドからベラルーシへの帰途の列車の車中で、行商人の男性に聞かれる。「あなたは本をたくさん読んでおいでだが、私のように商売ができますか。商売で儲けることができますか」。男性はベラルーシで釘を仕入れポーランドで売り、ポーランドで電化製品を仕入れベラルーシで売っていた。世界中が同じようになってしまったという感慨を覚えた。
 30年間「赤い人」たちのユートピアについて問うてきたが、そこでは美しいはずの世界は血の海になってしまった。それがどのように形成され、崩壊したかに関心がある。

(関係者紹介・挨拶タイム。翻訳者の松本妙子さんより挨拶。『セカンドハンドの時代』を翻訳しているうちに、あたかも自らの手が血まみれになったような感覚を覚えた、自分はタフなほうだと思っていたが、決してそうではないことに気づいた、とのコメントが印象的。)

〈パート2:日本ペンクラブより質疑タイム〉
下重暁子(挨拶と質問):
諦めの境地という日本文学の伝統、想像力のなさが嘆かわしく感じる。お考えを伺いたい。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 現代はとても難しい時代で、人々は回答を過去に探している。保守主義の台頭に反映されている。民主主義は壊れやすいもので人々は未来を信じられず、セカンドハンドの思想を信じようとしている。ハンナ・アーレントが言ったように、人々を励まし勇気付ける存在としての知識人の役割が重要になる。
 いままでは人は消費によって満足を得ていたが、消費にすら人間は満足できなくなった。新しい哲学が必要だと思うが、特に旧ソ連のような国ではそのようなものが出てきにくい。足元が不確か。新しい国を作る機会はそうそう巡ってこないだろう。
 作品で人を脅かそうとするつもりはなく、人間の魂や精神、理想主義を伝えようとしてきた。こんな時代だけれど、想像力を忘れてはいけない。全体主義ファシズムですら勝利することができなかったのだから、絶望してはいけない。

吉岡忍:
(『死に魅入られた人々』について)自殺者に取材対象として関心をもったのはなぜか。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 それまで信じていた理念を信じられなくなってしまった人々の存在に関心をもった。共産主義の奴隷になった人々、共産主義という黒魔術に魅入られた人々がその事例である。自殺からの生還者が共産主義という理念に一体化する恍惚を語り、その時死んでも惜しくない、と自らの命の価値をあまりに軽く扱っていたことに震撼した。

 あまりに大きな国、大きな空間は空洞である。それに対峙する人間には自らに価値がないかのように感じる。 ゴルバチョフと少数の民主派は大衆と同じ言葉をもつことができなかった。人々はただ、よい生活を望んでいただけで、新しい体制への想像力が働かなかった。
 プーチンは「偉大な指導者」として自らを提示し、大衆に馴染む既存のマトリックスを提示した。そのことはとても危険なことである。

〈パート3:報道各社質疑タイム)

プレスより質問・1:ジャーナリストに必要な勇気とはどのようなものですか。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 ジャーナリストはより謙虚であるべきだと思う。専門知識や感受性がジャーナリストだからといって優れているわけではない。それぞれの職業に携わる人々のもつ専門知への敬意が大切。勇気というものはプロフェッショナルの倫理としてもっていなければならないものなのではないか。
 感情面での勇気よりも思想面での勇気を高く評価する。陳腐な発想や思想を繰り返さない勇気が大切。


プレスより質問・2:(『戦争は女の顔をしていない』について)インタビュイーに質問しにくかった内容はありますか。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 『戦争は女の顔をしていない』について) 愛の話題とスターリンの話題は質問しにくかった。祖父母の世代では愛に関する考え方が全く異なり、言語化されにくく、ロマン化されている。愛と若さは密接に絡み合っていて分けることが難しい。占領地での強姦についても質問しにくかった。
 独ソ戦での勝利を話題とすることが社会のなかで避けられてきた。ドイツのファシズムソ連ファシズムの衝突だと理解していたのは非常に少数の人だけ。
 自身の父親の言動を回想してみても、共産主義を信じていた人からそのひとの人格のひとつになっている共産主義を分離することは非常に困難だった。

プレスより質問・3:福島で人々は語りたがらない。カタストロフィを語る文学として証言形式を選んだのはなぜですか。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 数十年にわたるカタストロフィをどのように語るか。カタストロフィの語り自体がカタストロフィになってしまうことがある。 チェルノブイリを扱ったフィクション(小説、映画)はみな成功していない。まだ文化のなかにそのカタストロフィが意義づけられて定着していないからだ。
 チェルノブイリ事故時に放射線封鎖のために上空から砂をまいて被爆した操縦士の談話が記憶に残っている。「自分はこの状況が理解できない。あなたにも理解できないだろう。しかし、後の世代が理解できるかもしれない」。

プレスより質問・4:泊原発について北海道で講演されたことがありましたが、そのときの印象をおきかせください。地方の可能性についてお考えをおきかせください。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 北海道の風景は素晴らしい。生まれ故郷との共通点がある。泊では、広々と自由な風景のなかに原発の風変わりな建物があり、自然とテクノロジーの共存に美しさを感じた。しかし、死と美は隣り合っている。そのことはときとしてトラウマになる。
チェルノブイリが起きたのはソ連の人々がでたらめだからではないか。日本ではそんなことはない」とそのとき日本人技術者からコメントされたが、そのようなことを言っていた人々が、(東日本大震災原発事故を通して)文明がごみになる場面に直面した。人間は自然界において占めるべきではない位置を占めてしまった。
 これから人々は大都市から逃げ出すようになり、そのとき全く新しいテクノロジーを手にするようになるだろう。東京の上空からの航空写真を見るととても非人間的にみえる。これからの人たちは東京を離れ、北海道に移住するようになるかもしれませんね。(会場笑い)

プレスより質問・5:東日本大震災以後、原発はこれからもなくならないと思いますが、これからの自然との共生についてのお考えをおきかせください。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:
 ベラルーシでの私の住んでいるマンションでは一世帯で二台も三台も自家用車をもっているひとたちがいます。このような考え方では原発はなくなりませんよね(会場笑い)。自然は人間に判断を示していると思う。これからどのように自然と共生してゆくか、別の考え方が必要。別の考え方が作れない限り、原発はありつづけるだろう。時代の変化がとても急激なので、古い哲学ではその挑戦に立ち向かえない。技術が新しい形の戦争に形を変えている。
 チェルノブイリからバスで避難するひとびとが、飼っていた動物をおいてゆく。そしてなぜ避難しなければならないのか人々が分かっていない。これは新しい戦争のかたちだと思った。

--

以上です。信じていたものがこわれてゆく時代をまのあたりにして精神的な危機を迎えた人々、時代の変容に対峙する新しい考え方が作れないで苦しむ人々、そのような状況が顕著にあらわれる時代を専攻している歴史学徒・思想史研究者のみなさんにもぜひ見ていただきたかった対話集会でした。「歴史の人質」「思想という黒魔術」「思想の奴隷」など、すばらしい表現も数々ありました。
(西洋古代・中世研究を志す若人のみなさんも、ぜひアレクシエーヴィチさんの著作を読みましょう。)

単著『ユリアヌスの信仰世界』を上梓しました

このたび、単著『ユリアヌスの信仰世界 万華鏡のなかの哲人皇帝』を慶應義塾大学出版会から上梓いたしました。
博士学位請求論文に大幅に加筆改訂して単著に仕上げました。

密林堂でも取り扱いあります。こちらです。

日本ではイプセンやメレジコーフスキイや辻邦生の戯曲・小説で知られてきたローマ皇帝、「背教者」ユリアヌスが見た同時代の宗教と父祖たちの祭祀の伝統とははたしてなんであったのか。彼が求めた威厳ある清潔な宗教の実相とはなんであったのか。ユリアヌスの読書経験とイアンブリコス派新プラトン主義の関わりを参照しつつこの問題に取り組んで、見通しを提供した著作です。
日本人研究者によるユリアヌスの知的伝記としてははじめての試みです。

自分で言うのも何ですが、「知の歴史」と宗教史学を架橋しつつも叙述の魅力ある歴史書になったと思います。あとがきから読む派のみなさんにもお楽しみいただけるかと思います。
上梓にあたっては平成28年度科学研究費助成事業研究公開促進費(学術図書)の助成をいただきました。
改めて感謝申し上げます。

慶應義塾大学出版会ウェブサイトの紹介頁はこちらです。
目次と梗概がみられます。
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766423822/

慶應義塾大学出版会ウェブサイトに自著紹介エセーも掲載されました。
リンクはこちらです。
http://www.keio-up.co.jp/kup/gift/julianus.html

耳塚有里さんによる装幀は大理石やトラヴァーティンの輝きの面影も伝えて素敵です。
かっこいい本にしあげてくださってただただ感謝です。

いま慶應義塾大学出版会のウェブサイトのトップページでは、『ユリアヌスの信仰世界』は東大宗教学研究室同窓の渡辺優さんの著書『ジャン・ジョゼフ・スュラン』とともに「おすすめ本」コーナーで紹介されております。「生きられた経験」としての宗教現象を対象化しつつ実証的な研究を行う東大宗教学研究室西洋宗教史部門の学風とその出身者の著作をこのようにしてひきたててくださり、ほんとうにありがたいことです。

7500円+税と、学食の麺類およそ1ヶ月分のおねだんいたしますが、みなさまどうぞよろしくお願い申し上げます。

【登壇します】シンポジウム 「宗教」をものがたる-宗教/文学研究のいま-

「宗教・イメージ・想像力」研究会、第2回の企画として以下のシンポジウムを行います。私もコメンテーターとして登壇します。
ショートノーティスで恐縮ですが、ご関心おありのかたぜひお運び下さい。
近藤光博さんのnoteより情報を転載します)

==========

【シンポジウム】「宗教」をものがたる-宗教/文学研究のいま-

◆ 2016年8月7日(日)13時半から17時半ごろまで(時間帯が多少前後するかもしれません)

日本女子大学 目白キャンパス 百年館

◆ 発表者 ※ 諸般の事情から、発表順が変更になりました(160803)

13:30-14:10 茂木謙之介(東京大学大学院)「〈幻想〉の宗教学 ―雑誌『幻想文学』研究序説―」 ※『幻想文学』をめぐって

14:10-14:50 橋迫瑞穂(立教大学)「ポピュラー小説にみられる宗教/スピリチュアル的「世界」観 ー恩田陸『夢違』を事例に―」 ※ 恩田陸『夢違』をめぐって

<休憩>

15:10-15:50 飯島孝良(東京大学大学院)「メディアとしての一休「像」とその禅文化史的意義」 ※ 水上勉『一休』、唐木順三「しん女語りぐさ」、加藤周一「狂雲森春雨」、『別冊太陽 一休』などをめぐって

15:50-16:30 大澤絢子(東京工業大学大学院)「新聞小説親鸞像 ―石丸梧平から吉川英治へ―」 ※ 石丸梧平の新聞小説をめぐって

◆ コメンテータ 中西恭子(東京大学

◆ 主旨 (文責:茂木)

※ この企画は、「宗教と社会」学会 第24回学術大会でのテーマセッション「物語を読む、宗教を読む―宗教/文学研究の架橋のために―」(代表者:橋迫瑞穂)のフォローアップ企画です。

 本シンポジウムの目的は、近現代の諸メディアの分析を通して、「宗教文学」を問い、宗教研究と文学研究の架橋を図ることにある。

  これまで宗教研究では、フィクションと宗教を問う際に、文学テクストに内在する〈宗教〉的モチーフの検討が多くなされてきた。だが、そこで扱われる〈宗 教〉的モチーフとはいかなるものかについては曖昧な議論がまま見受けられ、文学テクストを扱うに際してのメディア論的な見地からの検討も十分になされてき たとは言いがたい。一方で、文学研究における「宗教文学」研究においては、特に特定の宗教への信仰を語る主体を対象とするような作家論的研究が多くを占め ていると言える。

 過去二十年以上にわたり、人文諸学においては自らの学問領野の自明性・自律性を問い直す試み が行われてきた。宗教研究においては、〈宗教〉概念が俎上に載せられ、分析概念の相対化が図られてきたことは周知の通りであり、また文学研究においても、 〈文学〉なるものの範囲、正典(カノン)としての〈名作〉の特権性、そしてロラン・バルト以降の作者の優位性をそれぞれ問い直す動向が生起している。だが、そのように自らの研究領野へ批判的なまなざしを向ける一方で、周辺領野の研究に関して相対化は十分に図られてきていないのではないだろうか。言うなれば物語と宗教の関わりをめぐって、宗教研究と文学研究は、互いの研究領野における学問的達成への目配りが成立しているとは言いがたく、積極的な架橋が望ま れているのである。

 以上の問題意識から、本シンポジウムでは、作家論的研究を乗り越えることを一つの課題とし、宗教研究及び文学研究で共に研究領野の相対化に資しているメディアへの注目を一つの視座として検討を行う。なお、メディアはイエ、教育とならび、大衆 の宗教へのアクセスの仕方として想定可能である。特に大衆が宗教性に巻き込まれる、あるいは大衆を宗教性に巻き込むといった事態を想定した際、メディアを 分析する意義はきわめて大きい。これを見ることによって端的に文学の正典に寄り添うだけにとどまらない「宗教/文学」研究の可能性を探ることができるので はないだろうか。

 大正期の新聞小説における親鸞の検討を行う大澤絢子、および戦後諸雑誌における一休表象を問 う飯島孝良の報告では、近世以降の出版文化の流れを踏まえつつ、近代以降の諸メディアにおける祖師像の形成過程とその意義を明らかにする。スピリチュアリ ティの観点から恩田陸の小説『夢違』の分析を行う橋迫瑞穂と、雑誌『幻想文学』における宗教学知の影響を論じる茂木謙之介は、1970年代のオカルトブー ム以降の現代文化の文脈をおさえつつ、文学の文化的背景としての宗教を論ずる。

 コメンテーターには宗教研究と文学研究を架橋する実践者である中西恭子氏を迎え、討議を行いたい。

◆ 連絡先 近藤光博 fwih3395@mb.infoweb.ne.jp またはツイッター @mittsko

◆ 主催:「宗教・イメージ・想像力」研究会/エコノミメーシスR&D   
オーガナイザ: 茂木謙之介/橋迫瑞穂