ホッキョクウサギ日誌

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《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》関連記事まとめ

このたびは《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》への12月21日ソワレ分の劇評をお読みくださりありがとうございます。
ブラウザゲーム未修、刀剣乱舞シリーズ初見の者が「神農直隆氏演じる武市瑞山武市半平太)が見たい」という動機で東京凱旋公演を見に行きまして、「とてもおおきなものを受け止めてしまったので書き留めておきたい」の一心で書いた記事で、見落としや記憶違いなど至らない点もございますが、予想をはるかに超えた反響をいただきました。感謝申し上げます。
詩書やハードカヴァーの学術書の標準初版部数はおおむね500部から700部です。今回の記事では、一日で私の第一詩集(『The Illuminated Park 閃光の庭』書肆山田、2009年、第15回中原中也賞最終候補作品、初版500部(なかにしけふこ名義))と単著(『ユリアヌスの信仰世界』慶應義塾大学出版会、2016年、初版700部)の初版部数を軽く超えるページビューをいただき、ほんとうに驚いています。
2.5次元ゆめあなどるべからず。やはり複雑な象徴体系をこめた作品を論評する適切なことばが求められているのだと改めて感じ入るしだいです。

そして18日の大千穐楽ライヴビューイングまで待てず、もう一度見に行きたくなりまして、1月4日のソワレを見てきました。新たな発見が多々ありました。
大人三人の円熟もさることながら、刀剣男士を演じる若手演者のみなさまの上達には目を見張りました。やはり長期公演の醍醐味でしょう。龍馬さんと武市先生と東洋さまについても新たな発見が。
12月21日、1月4日とお席の手配にご尽力くださったみなさまありがとうございます。
さらに審神者の皆様から舞台版の過去作品やミュージカル版のおすすめもいただきました。1月4日ソワレ分、1月18日大千穐楽ライヴビューイング分の記事は追ってUPいたします。

こちらに関連記事へのリンクをまとめます。
12月21日分
その壱(総説)

mmktn.hatenablog.comその弐 シノプシスと作品設定

mmktn.hatenablog.comその参 刀剣男士のみなさま
陸奥守吉行、紅白鳥太刀、和泉守兼定堀川国広

mmktn.hatenablog.comその四 刀剣男士のみなさま(南海太郞朝尊・肥前忠弘)と以蔵さん

mmktn.hatenablog.comその五 歴史人物のみなさま(主に武市先生)

mmktn.hatenablog.com

1月4日分
その壱 覚書

mmktn.hatenablog.com

その弐 薫習の物語、そして龍馬さんと武市先生

mmktn.hatenablog.com


それでは、引き続きご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》(2020年1月4日ソワレ、赤坂ACTシアター)その弐 薫習の物語、そして龍馬さんと武市先生

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》東京凱旋公演千穐楽おめでとうございます。
あの果てしないように思われたタフな公演日程を無事に走り終えられたこと、ただただ感嘆と畏敬をもって見つめております。
千穐楽はライヴビューイングで拝見します。
どうぞ最後までつつがなく務められますよう、皆様のご武運をお祈りしております。

SNSで検索をかけると、そしてみなさまの観劇記を拝見すると、舞台は見る人によって、そして見る日ごとに相貌を変えるものだということが改めて実感を伴って感じられます。私たちのそれぞれに知っているかれらの姿と、知らない彼らの姿を分かち合おう。ひとりの眼にはとてもとらえきれない世界を私たちはどのように書いてゆくのか。《維伝》の記憶の断片をひろいあつめて解像度の高いすがたを導き出すミクロストーリア(マイクロヒストリー)の生成に立ち会っているような気持ちにすらなります。この舞台の仕掛け自体に、歴史と歴史叙述に対する批評的な視点が感じられます。

そして、‪刀剣と史実という着想源へのリスペクトぬきには成り立ちえない作品であると思います。情にほだされるままに人の心を慰撫するあまたの物語に書き換えられてしまうことを全力で阻止する意志の物語でもある‬。だからこそ心を揺さぶられる…とても大きなものをいただいたように思います。

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《維伝》という群像劇の主軸には、元主と出会ってその人生の「物語」に薫習されて霊格/剣格を高めてゆく「付喪神」の顕現体としての刀剣男士それぞれのビルドゥングス・ロマンがあります。
「旧い魂」たちはあまりに永く顕現体でありつづけたので、もはや刀剣体としてのみずからを忘れている。両性具有の「父」・小烏丸と融通無碍なトリックスター鶴丸国永が「若い魂」である土佐刀たちと土方刀たちをおおらかに見守る(この玉城裕規さんと染谷俊之さんの演技がじつに「旧い魂」の自在さと老獪さを感じさせてみごと、もっと見ていたいような気持ちになります)。
それぞれに「朧」の元主たちと遭遇して薫習されてゆく土佐刀たちの物語と対置されるのが、不在の元主への念を試される土方刀たちです。土方歳三という不在の父であり兄である元主への忠誠心を試されるたび、「最後の刀」としてのアイデンティティとダンディズムを強く意識せざるをえない和泉守兼定と、その弟分の堀川国広。「強くて格好いいとは俺のことさッ!」「俺は刀の時代の最後の刀だ…拳銃なんて使うかよッ…くっそう…よーく狙って撃てばいいんだろッ!」田淵累生さん演じる和泉守兼定のきらきらした風姿と歯切れのいい東京西側ことばににじむ矜恃と忠誠心とうらはらなよるべなさがまぶしいようです(小西詠斗さん演じる忠実で折り目正しい弟気質の堀川国広とのタッグが絶妙ですので、彼らと土方歳三とのドラマが見たい。堀川くんの風姿が脇差しの時分の花であるうちにぜひお願いしたいです) 。

「物語をくれ…もっと物語を…」と迫り、鶴丸国永を助ける「時間遡行軍」の彼の正体と、任務遂行後に紅白鳥太刀によって言及される「結の目に入った三日月」の彼の正体は、物語環として舞台『刀剣乱舞』シリーズを見て考察を深めてはじめて判明するように設定されているのでしょうか。旧作のシノプシスを読んだ上で本作を見る限りでも、元主からの薫習の記憶が彼らの霊格を高め、元主や仲間を救いたいという思いが無限の物語のループを生む、という想定が少なくとも物語環のなかに存在することは察せられます。

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《維伝》は坂本龍馬陸奥守吉行(むっちゃん)がセンターの話なのに、こちらでは彼らのことをあまり書いてきませんでした。
その開明性をもってのちに国民的英雄となった龍馬と、彼の実家の家宝であった陸奥守吉行が、龍馬自身の悔恨の世界で「朧」の龍馬と「付喪神」の顕現体として出会う。この邂逅を通して陸奥守吉行の「付喪神」の顕現体が「刀剣男士」としての霊格と使命に覚醒する。この過程は《維伝》の核心にある物語でもあります。
岡田達也さんの龍馬は若々しく春風駘蕩として朗らかです。殺陣も速い。年齢をまったく感じさせない。じつにアラフィフの希望の星でいらっしゃる。
刀剣男士たちがこの龍馬と出会い、そのなさけにふれて打ち解け、心を許しても、ひとたび情にほだされて龍馬の願いを叶えようと思おうものなら、彼らが本来ほろぼすべき「朧」の温存にもつながりかねない。その危うさが伝わります。
今回の一座の座長でもある蒼木陣さんのむっちゃんぶりが、見る度毎にますますまっすぐに闊達でたくましく、龍馬の薫習を受けつつ成長してきたのだなと一目瞭然。とはいえ、この物語は、はじめ「龍馬、おまえには会いとうなかった」と告げるむっちゃんが、「朧」となってもなおどこまでも楽天的で包容力ゆたかな、龍馬の大海原のような人となりにふれるうちに、それでもこの人は朧の人であるならば討たなければならない、とみずからのかなしい使命を甘受する物語でもあります。

「そなたのいま言うたことはみな今のそなたの知り得ないこと、未来のことが今のそなたになぜわかる」と「朧」の龍馬に詰め寄る小烏丸のことばではっとするむっちゃん。「僕たちは…刀だよ?」と南海先生に語りかけられるむっちゃん。

国民的英雄の家宝の刀の付喪神にふさわしい存在となるよう「朧」の龍馬から薫習を受けるむっちゃんの霊格の成長と使命感の自覚の場面は要所要所にちりばめられていて、南海先生や肥前くんの薫習ルートとはまた相異なる様相を示しています。
そして、異形の龍馬にはそれほど異形感がありません。ほぼ原型を留めています。その期に及んでも善意と包容力と進取の気性で人を動かせると信じてやまない。だからこそ幕切れの真剣勝負の場面は悲痛なまでに朗らかです。おんしはわしを討ちにきたのか、わかった、さあ、討て、とおとなしく介錯されようとする異形の龍馬に、どうせ討たねばならぬのなら全力で向かってほしい、と頼み込むむっちゃん。剣と拳銃の二刀流で撃ちあう二人の真剣勝負は晴れやかですらあります。
決闘なのにこんなに朗らかでいいのだろうか。かつてこんなに朗らかな決闘シーンがあっただろうか。
散り際の龍馬におんしの国はよい国か、と問われて、たとえ反語であっても、よい国だあ、と叫ばずにはいられないむっちゃんがじつにけなげです。この2205年の世界は、さまざまなかたちの「歴史改変」が生じて、刀剣男士らが過去の世界に送られなければならないような世界であるのに。「朧」の龍馬のあたたかな人となりだけではなく、厳格な身分制度に対する「朧」の人々のさまざまな抵抗や、人を斬りたくなくても斬らなければならないと嘆く以蔵くんとの遭遇が彼の霊格に与えたなにものかの痕跡でもあるのでしょう。

そういえば陸奥守吉行に「また会えるかもしれない」と言っていた龍馬でした。キャラメルボックスの《また会おうと龍馬は言った》へのオマージュでもある台詞ですが、この世界で発されると意味合いがかわってくる…何度でも何度でも異なる方法で鎮魂されなければならない世界。またあの世の龍馬のたましいに悔恨が兆せば、あの世界は何度でも顕現するのではないかとも思えてきます。

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《維伝》は朧の世界にあるからこそどこまでもすれちがってゆく坂本龍馬武市瑞山武市半平太)の物語でもあります。「朧」になっても、異形になっても、武市先生だけはみずからが「朧」の世界に幼なじみの悔恨によって巻き込まれたことに自覚的であるように思われるのです。神農直隆さん演じるこの超然と気高い武市先生には余人をもって代えがたいものがあります。
史実の武市瑞山が傾倒した復古神道平田国学、そして吉田松陰久坂玄瑞につらなる尊皇攘夷思想は舞台上では暗示にとどまります(承前)。「死んで魂だけになってもこの国を守る」の辞世のことばや、「なぜ邪魔をする…この国を守ろうと思うことのなにが悪いのじゃ…この刀の先には人がいる、この刀は未来を開く刀じゃ」の台詞には『霊の真柱』の他界観や清明心につらぬかれた愛郷心の反映を見ることもできるでしょう。しかし、どこまでもひらけてゆこうとする龍馬とのすれちがいを熱い対話劇で描くにはまた別の舞台が要る。武市先生の背景をあえて余白に託す見識は、彼がなぜそうなのかを知りたい、とねがう読者の応答可能性と思考とを喚起する見識でもあります。少なくとも近代的詩歌作家の概念と西洋近代語からの翻訳語としての「崇高」「浪漫」の概念の到来以前の、理想国家の建設のヴィジョンに殉じる、和歌と漢詩を詠む剣術師範であったということを念頭において見ると彼のたたずまいにすこしく近づけるかもしれません。
史実部分の群衆にまぎれて朗らかでひたぶるな使命感に燃えて視線をかわしあう龍馬と武市先生。吉田東洋暗殺の教唆の嫌疑で割腹を命ぜられ、死んで魂だけになってもこの国を守る、と言って潔く割腹する武市先生(高潔な割腹シーンで、少なくとも私にとってはこれまで見てきた割腹シーンの印象が上書きされるものでした)。この史実場面での彼の生身の人間らしさが、「朧」の世界では氷に閉ざされたかのようにどこまでも冷たく旧友を突き放すおもざしへとかわってゆきます。
死なせたくなかったのに、説得に応じてほしいのに、どこまでもすれちがってゆく存在として龍馬の悔恨のなかで武市先生が回想されてしまうのがいたましい。あの悲痛に冷たい威厳に貫かれた姿で回想されて「朧」として顕現するのがいたましい。「坂本龍馬ァ…またおんしか…以蔵、龍馬を斬れ」「以蔵、おんしは龍馬を斬れるか」。不可視の霊的国家のヴィジョンを統合原理としてまとった武装組織の参謀役で、恐ろしいようなお立場を貫く役なのに、みずからの手で分岐を終わらせようとする決然たる意志があの凜々しい背筋に感じられて、眼が離せなくなります。

深海のような青い光のなかの無数の目にみつめられての「龍馬、またおんしか…これはおんしが始めたことじゃ」。龍馬に脱藩をあかるく持ちかけられての「脱藩じゃと。龍馬、おんしはわしを莫迦にしておるのか」。龍馬に説得されて脱藩して、激動の19世紀の大海へと限りなくひらかれてゆくユートピアをともに具現化させてしまったら、この歴史の分岐は終わらない。ここで二人が語り合って和解に達したなら、「朧」の世界はどこまでも続いてしまうから、歴史はまったく書き換わってしまう。だからこそ史実通りにみずからの理想に殉じることで、龍馬の鎮魂されることのない遺恨と迷いが何度も生み出した世界を、朋友であった龍馬をかぎりなく突き放すことでこの手で確信を持って終わらせようとする。舞台上では寡黙な武市先生の背中ににじむかなしみから眼が離せなくなります。
あえて懐刀の以蔵さんに天誅の力によって世界を閉じる役割を担わせた結果、武市先生の言動は以蔵さんと彼の愛刀の付喪神肥前くんの意外な思いを引き出してゆきます。拝跪とともに敬愛を注がずにはいられない長上の命令であっても、大切な友達を斬りたくない、斬らないですむならもう斬りたくない…これは武市先生にとっては史実の以蔵さんの裏切りに近づく過程でもあるのでしょうか。「以蔵、おんしは誰の刀じゃ。東洋を斬れ」に至って「朧」の武市先生の意志は史実と合流するかのように見えます。

ことばの剣をかわしあえれば理解し合えるかもしれないのに、あえて自らの手でこの「朧」を終わらせるためにかたくななまでに超然と理念に身を委ねる武市先生。異形となって紅白鳥太刀や南海先生に討たれても、龍馬に支えられて抗いながら舞台の奥へ去ってゆく武市先生。名台詞「なぜ邪魔をする…この刀の向こうには人がいる、この刀の向こうには未来があるんじゃ…」の慟哭も、乱世においては闘わなければ得られないものがあるという信念のあらわれであると同時に、断固としてこの手で「朧」を終わらせなければならないという意志のあらわれでもあるでしょう。

ほんとうに、もう、武市先生は、どうしてそちらへ向かってしまうのか、そちらへ向かわなければ世界が閉じないから彼はそうしているのだ、とわかっていても、悲痛で息を呑みこんでしまう。東洋さまと以蔵さんと武市先生が迎える「最期」へつらなる長い戦闘場面の劇伴があの舞台の上に光の柱が立つかのような音楽であることは、大いに意味のあることでしょう。「武市さん、もうあきらめるんじゃ、尊皇攘夷ではもうこの国はたちゆかぬ」から「龍馬…おまえにはかなわんぜよ」に至る諦観のふくらみが、音楽によって昇華されるかのようです。

武市先生の遠い雪嶺のようなうつくしさを思い出すたびかなしいしんとした気持ちになるのですが、やはりほんとうに大変な役どころです。絶妙のバランスで「朧」の世界にリアリティを与えるだけでなく、剣術師範に見えなければならないので重量感と威厳のある殺陣も披露される…カーテンコールでふんわりなさる神農さんのお姿を拝見するだけでもどれほど大変な役どころか容易に想像されます。最後までお怪我がないことを祈っております。

それにしても末満健一さんの台本が登場人物に注ぐまなざしのあたたかさに改めて思いを馳せざるを得ません。ゴシックホラーとダークファンタジーのテイストもある歴史叙述メタフィクションものと温かいまなざしは両立しうるのです。人が人を想うということ。往年のキャラメルボックスの舞台へのオマージュでもあるでしょう。リアルタイムでキャラメルボックスに接してきたファンとしては、ここにその思いの継承者を見る思いです。言葉の剣をもって事象を斬る訓練を受けてきた人文学徒としては、「僕たちは…刀だよ」「歴史を守らない刀は刀じゃあない、俺は刀だ」とことばに出さずにはいられない刀剣男士たちの述懐に、情をふりきっても「朧」を斬らなければならない使命感をふるいおこす彼らの思いの描写に、胸を抉られるような感慨を憶えます。

以上のお話をあの素晴らしい殺陣と疾走感ある場面転換に盛っているのです。舞台作品としてはまさに正攻法の手法をとりつつ、批評的視点を人それぞれの広さと深さをもって実感させる作品世界はもはや現象と言ってよいと思う。ゲームや舞台から入った人に文語文と格闘しても『霊の真柱』を読んでみようと思わせる力がある。これはすごいことです。

途方もないものを見ました。いま日本で見られる傑出した舞台の一つであると思います。

《維伝》関連記事に「パブリック・ヒストリー」タグを貼った事情についてはまたいずれ。

零細文人ではブログに壁打ちや「薄い本」制作が関の山ですので、メジャー媒体にどなたかきちんと評を残してくださることを期待します。


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ところで、史実の龍馬さんと武市先生は、江戸で出所のあやしい金時計を拾って売り飛ばそうとしておとがめに遭いかけた共通のいとこ沢辺琢磨を箱館に逃したりもしています。沢辺琢磨は史実龍馬さんの父方のいとこ、史実武市先生の奥様の母方のいとこです。
1857年、箱館に逃れた沢辺琢磨は1861年に来日したロシア正教会の宣教師ニコライ・カサートキン(のちの亜使徒聖ニコライ)に邂逅し、攘夷思想をすてて1868年に正教徒となり、日本における正教伝教者の草分けとなりました。その人生はやはり壮絶なものでした。草莽の志士の親戚ならでは、と思わざるをえません。
史実の龍馬さんと武市先生にはそんな時期もあった、と考えると、これまで何度も召喚されてきた「朧」の世界のなかで、「一緒に脱藩しよう」の誘いが成功する分岐を想像する観衆や審神者のみなさまもいらっしゃるのではと想像します。
だめです、キリスト教再伝来史視点で朧を混乱させるのは。

だめですったらだめです。

EPOCH MAN 《鶴かもしれない2020》(2020年1月12日、駅前劇場) 現代の民話が立ち上がる場所

小沢道成さん作・演出・主演の一人芝居です。2014年初演作品の再再演とのこと。

鏡面仕上げの床のほのぐらい舞台と一面の大小の暗い鏡張りふうの額からなる壁に囲まれた部屋で、3台のラジカセとの「対話」とともにまっすぐに破局へむかってすすんでゆく、恋愛の一回性に夢を見る自己肯定感の低い若い女性の物語に読み替えられたビターな『鶴の恩返し』。
ヴィジュアルはほぼこの劇団ウェブサイトの雰囲気。才人の作品です。
三台のラジカセから流れるラジオドラマのようなナレーションと、そこにいるはずの見えない「恋人」の声との対話に、民話の悲恋譚に対する批評的な視点があります。

たまたま助けてくれた売れないバンドマン「ヒロくん」のところに、とても美しい娘「鶴子」が押しかけ女房となってやってくる。髪型は半分ボブで半分ツーブロック、黄金に見える着物をノスタルジックなワンピースの上に羽織った彼女は、ラジオから流れてくる『鶴の恩返し』の朗読に導かれるように、家父長制的な村を描く民話の価値観に身をなぞらえるようにして尽くしに尽くす。ラジカセから流れてくる生活音への呼応と姿の見えない「ヒロくん」の声への応答にはいっさいの乱れやほつれがない。おそろしいくらいに鋭敏です。
バンドマンであるからには一度はアメリカへ行ってみたい、そこで自由を感じたいと夢を語る「ヒロくん」の話を聞いてしまってスイッチが入った彼女は、彼の夢のなかにいよう、愛されようと文字どおり「身を毟る」ようにして貢ぐ。贈り物が豪華になってゆくにつれて、ついに「ヒロくん」は「鶴子」の「身を毟る」お仕事の実態を知ってしまう。極彩色の光のなかで踊る「鶴子」。健全に愛されて育った彼は「鶴子」がなぜそこへ向かってしまうのか理解できない。そんなことまでしなくても、という願いが届かない。ついに二人のペルソナが直接に言い募ります。半分ボブで半分ツーブロックの横顔の、両性具有的な風姿で。

最初にあらわれる「鶴子」は年齢不詳の異形の人にも見えます。足袋を履いて和服を羽織った姿には、古典芸能の狂女類型への言及も見えるようです。「鶴子」のたたずまいからは、自己肯定感を徹底的に剥奪されてからだの痛みも押し殺して生きてきたのであろう来し方がひりひりと喚起されます。
「ヒロくん」のバンドの代表曲《どん底》は貧しい生活の悲哀を歌う歌です。生活の悲哀を歌っても「ヒロくん」の歌とたたずまいにはどこか明るい希望が兆すのに、「鶴子」が真顔で歌うと冗談にならず、歌の境涯に誘われるように「ヒロくん」の身辺を物質的に豊かにしたいと願って「身を毟る」お仕事へとむかってゆく。一人芝居だけにこの対比と転換がますます鮮烈です。自己肯定感の薄い若い女性がひたすらに愛されたくて恋人に破滅的な自己犠牲のかぎりを尽くす痛ましさ。鶴となって飛び立つことさえできず、ひたすらに人間の身でこわれてゆく偶然の恋人を受け止めきれないバンドマンの悲哀。現代の民話の立ち上がる場所が見えるようです。

小沢道成さん作・演出で『遠野物語』を着想源にした作品が見てみたい。現実の悲惨を寓意や比喩で包む悲哀に事欠かない収集例がこの視点で読み替えられるさまをぜひこの目で見てみたいような気がします。

1月13日までです。別演出での横浜公演も2月に行われるとのことです。

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》(赤坂ACTホール、1月4日ソワレ) その壱 覚書:音楽と音楽的なるもの、朧なるもの

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》。1月4日ソワレに行ってきました。

寝かせておくと東京凱旋公演が終わってしまうし、なんと冬休みがもう終わってしまった。昼は宗教学/キリスト教学のせんせいです。締め切りを斬らねばならぬ。
なので書いてしまおう。以下覚書です。

 

・大人三人が深みを増し、刀剣男士の皆さまがこの二週間ですばらしく上手くなっていました。これはほんとうに長期公演ならではの醍醐味だと思います。
 一発でハイ・パフォーマンスを求められる日本の単発オペラ公演を見慣れております。時間をかけて舞台を熟成させるこの長期公演システムを日本のオペラ界にも実現できるようなシステムの導入を期待せずにはいられません。
・堀川くん(堀川国広)の発声が向上、兼さん(和泉守兼定)の深みと軽い響きのある発声が素晴らしい。二人ともインカムマイクを通しても決して濁らない発声なのが好ましいです。
 多摩川中流域北岸出身者にとっては土方歳三は郷土の英雄です。彼の愛刀の「付喪神」のお二人が凜々しい東京/相模・多摩川中流域方言で喋るのが嬉しい。特に兼さんの台詞回しはなかなかいそうでいない東京の西側の快男子の話しぶり、胸が空くようです。

・「本部」からの特命を告げるひぜんくん。朱いマフラーを巻いています。刀剣男士七振りの紹介ののち、「朧」の土佐に降り立つ土方刀・紅白鳥太刀・(坂本龍馬と対決したくなかった)むっちゃん。本部から派遣されたひぜんくんが迎える。本部から南海太郞朝尊(南海先生)が派遣される。罠を作る。登場順はこの順番であったような。

・南海先生の剣格は、あまり接触のなかったであろうもとの主のことを後天的に学ぶうちに、もしもとの主が尊皇攘夷思想から転向して開国後の世界に永らえたならば近代思想と自然科学を積極的に学んだかもしれない、という理想化された想定を内面化するに至り、旧制高校文化を生きる近代煩悶青年的なペルソナとして形成されたものかもしれない、という見立てができそう。第二幕の殺陣が非常に軽やかでひたむきでスマート。

・《魔笛》がすきなのでまた《魔笛》にたとえますが、ひぜんくんといぞーくんが並んだときのダブルモノスタトス感が深い。かれらのやるせない報われない世界の深さを映す人物造型であると思います。《魔笛》ならザラストロは「朧」の吉田東洋御大、「朧」の武市先生はザラストロの側近の神官といった役どころ。あるいはこの二人がザラストロの複数の側面なのかもしれない。やはり東洋さまがスケール大きく包容力深く、武市先生が超然とりっぱであればあるほど、ひぜんくんいぞーくんの悲しみが際立ちます。

 

衣装・照明・音楽

・異形化後の東洋さま、武市先生、龍馬さんの上半身はブレストプレートでなくて和装に西洋風の腕当てですが、とてもネオゴシック趣味に見えます。歴史人物の異形後の装束のボトムスは裾がぼろぼろの袴です。一瞬スカートに見えるくらい。

・今回は一回後方の立ち見席、照明・音響コンソール脇で見ました。プロジェクションマッピングと照明が素晴らしい。雲と建築のサンプリング画像、青い筆跡で描かれた無数の眼の画像、「朧」の世界に合わせて暗色と濁色強めにした雨や雪の画像処理が2205年の未来からみた(という設定上の)幕末のヴィジョンを伝えます。後方の座席から見ると照明の色合いの澄んだカクテルが強く印象に残ります。

・多様な様式を用いたダイナミックな劇伴で、やはり耳が追いつかないところが多々ありますが、和太鼓のリズムパターンを援用したリズムセクションに沿って殺陣が設計されていることは窺えます。殺陣部分の音楽の浮遊感を和楽器(横笛類)も用いた息の長い高音域の持続音と三味線のカッティングが支えます(鼓的なものも聴こえる)。ライトモティーフ不使用、初期シェーンベルク風の音楽もあった。遡上した時代にはまだ存在しなかった様式の音楽がさまざまに用いられていて、意図を知るには丁寧にサウンドトラックを聴く必要があるのかもしれません。

・第一幕、南海先生の罠制作ワークショップ場面も様式を先取りして21世紀初頭ふうのクラブミュージックに。
・第二幕の幕切れ近く、東洋さま武市先生以蔵くん討伐の場のほか、龍馬さんむっちゃん対決シーンの冒頭で、澄んだ女声合唱(?)つきのコラール風の楽曲が使われているところが非常にスリリングです。光の柱が舞台に立つような響きのなかで、武市先生の慟哭の場があって胸をえぐられるよう。様式が時代を先取りしています。近代フランス和声以後、アンビエントミュージック風にも聞こえます(ふわーっとした音響のひろがりはフォーレ《レクイエム》の《In Paradisum》を連想させるけれどむろん全然違う曲)。史実ほぼ同世代の管弦楽法を想起させる様式で書かれた史実部分序曲の劇伴がとてもよい。

・幕切れの2205年の「本丸」の日常場面、エンディングテーマに先立つエリック・サティ風(《グノシェンヌ》オマージュ作品?)のピアノ曲がとても不穏で素敵です。ぜひ譜読みして持ち芸にしたいです。

 

「朧」なるもの

・2205年には何らかの理由で「歴史改変」がさかんに行われるようになり、審神者を通して刀剣男士が歴史の分岐点に派遣されるようになった(と聞こえました)。ここに基本設定。

・歴史上の分岐のなかで、さまざまな事情によって生じた底から先へはゆかない行き止まりの世界への思いを刀剣の付喪神たちを派遣して「供養」する物語環の一部であることが明確に伝わります。龍馬の遺恨によって生じた世界であることを吉田東洋と武市先生は知っている。吉田東洋アイデンティティのゆらぎを通して自らが「朧」の世界にいることを知り、第二幕後半の異形のすがたとなった朧の志士たち討伐の場で、「武市さん、もう諦めなされ」と「朧」の世界でも尊皇攘夷思想がゆきどまりになりつつあることを開示する。武市先生は「朧」の世界を開いてみずからを召喚したのが龍馬であることを知っている。アイデンティティのゆらぎがないように見える、あるいはアイデンティティのゆらぎを見せない。龍馬の説得に応じるどころか、おそろしいくらいに「朧」の世界のほろびへむかって確信をもってまっすぐにすすんでゆく(龍馬の説得に応じると「朧」の世界は終わらなくなる)。

そして、刀剣男士と「朧」の世界が「召喚」技術を用いて作られている(思念の力によって作られている)ことをこの二人のほかに南海先生や鳥太刀も気付いている。このモティーフを丁寧に追うことで、あったことをなかったことにせず、行き止まりの世界を行き止まりの世界として描く技術の妙が見えてくる。もうちょっと丁寧に考えてみたい。

 

歌のヴィジョン

・オペラ的な構成を意識して見ると展開が理解しやすくなるかも。

武市先生に印象的なショートアリア的モノローグ複数。史実の彼が歌人/漢詩人だったことを想起しつつ見ました。オペラだったら歌わせるところですが、ストプレで場面転換が速いのがもったいない。

そして、東洋さまの自問自答もオペラならすごいレチタティーヴォになるところ。最後の龍馬さんとむっちゃんの決闘も圧巻の二重唱になるところ。

(私には詩を書くスキルと歌ってピアノを弾くスキルはあっても作曲のスキルがないので、ああこれはオペラなら歌うところだ、と思ってもオマージュ作品を音楽で書けないのが残念です)

・歌う武市先生のヴィジョン

序幕:切腹シーンの「死んで魂だけになっても」。これで心を奪われます。
平田篤胤『霊の真柱』がおそらく着想源で、神道的世界観における幽冥界への帰還の意ですが、そこで「魂の回帰」じゃないかあら素敵、と思ってしまう私は明らかに新プラトン主義文献の読みすぎです。それにしてもそこにはいない龍馬に命乞いをする以蔵くんの死に際が賑やかすぎ、もっと武市先生の辞世をじっくりきかせてほしい。武市先生は史実通り三回割腹。白装束を染める流血を朱い照明で表現。

第一幕:青い「朧」の世界の光。青い線画の無数の目に見つめられる武市先生。「龍馬…そもそもはおんしがはじめたことじゃった…龍馬…」。
ここもすぐ「もっと物語をくれ…」の時間遡行軍のモノローグに切り替わってしまうのですが、いいところなのでもっとじっくりきかせてほしい。惜しい…

第二幕:武市先生討伐の場は3部構成。
たのしそうにおどろきをもって「朧」の志士討伐に臨む紅白鳥太刀に討たれて下手の建物の壁に崩れる武市先生。以蔵くん肥前くんによる武装勢力下部構成員の裏切られた熱誠への怨嗟と自由の希求の二重唱をはさんで2回目、南海先生が刀の柄で武市先生を上手中央寄りの建物の壁に崩す(「融通の利かないまっすぐな人だった…もとの主と刺し違えるとこんな心理作用が働くものなのか、おもしろいね」はこの場面)。すかさず駆け寄る龍馬。龍馬に支えられ、抗いながら舞台奥へ消える。この世界を作り出した龍馬を「消す」ために旧友に刃を向けなければならない悲しみ。各刀剣男士の時間遡行軍との殺陣をはさんで3回目、吉田東洋・武市先生・いぞーくんがあらわれる。紅白鳥太刀と南海先生に斬りかかられる武市先生「なぜ邪魔をする…この刀の向こうには未来がある…この国をよくしたいと思うことのなにがわるい…」東洋さま「武市さん、もう諦めなされ」武市先生「東洋…以蔵、おんしは誰の刀じゃ。東洋を斬れ」(南海先生がっくりと首を垂れる)…行き止まりであることが判明している世界の、行き止まりを、武市先生のほこらかな矜恃の悲しみを、鮮やかにえがく場面。どうしてそちらへむかってしまうのか、と息をのみつづける。(重量感のあるタフな殺陣の連続のなかで、ここもショートアリア的な台詞を重ねて内心を吐露する場面、ライヴビューイングのカメラワークが楽しみ)

 

「朧」なるもの
・龍馬が徹頭徹尾善意を貫いても「朧」の世界でもかつての同志たちを説得できない展開。龍馬の善なる意志によってすら変えられない行き止まりの世界。未来を知る龍馬の希望的観測のなかにあってもなお断固龍馬の説得を拒んで「以蔵、龍馬を斬れ/東洋を斬れ」と告げる白き手の参謀として回想される武市先生のヴィジョン。2205年からきたむっちゃんに龍馬が問う、「おんしの国は、よい国か」。むっちゃん「よい国じゃあ」。絶叫。作中の2205年は「歴史改変」の分岐点への遡行を必要とするような社会であるのに、この絶叫は。この点をもうすこし丁寧に考えてみたい。

無限に生成される死者の悔恨が生み出すゆきどまりのかなしみが、ゆきどまりの武器であった剣をもって成敗されなければならないようなすさまじい世界に、未来から来るあのきららかなかれらは住んでいるのだ、そして私たちはそのようなヴィジョンを欲していたのだと知るとき、こころにしずかな慟哭が玻璃を破るようにひろがってゆく。けれどもそれは劇場を去って何日もたってからのことかもしれない。しずかな慟哭の玻璃の破れ、の訪れ。

パンフレット、ほか
・末満健一さんの脚本が確実にゴシック・ホラー/ダーク・ファンタジー好きの琴線に触れてこられる。怖いようです。パンフレットは購入されることをお勧めします。2500円の価値はあります。写真が美しいし設定集が重要です。

・回収しきれなかった部分:他作品との連続性。鶴丸と刀をかわす「もっと物語をくれ」の時間遡行軍の正体、三日月にちなむ名をもつ刀剣男士、「円環」に巻き込まれてしまった刀剣男士、この本丸がどうもお取り潰しによくならないなレベルの本丸らしいこと…前作までの円盤を見るともっとよく分かるのでしょう。

・後でもうすこし読みやすくするかもしれませんが、ここから先は(私が納得するための作業として)短歌連作にするかもしれません。(学校がはじまりますがたぶん)何らかの形でつづきます。

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》関連記事まとめ

このたびは《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》への12月21日ソワレ分の劇評をお読みくださりありがとうございます。
ブラウザゲーム未修、刀剣乱舞シリーズ初見の者が「神農直隆氏演じる武市瑞山武市半平太)が見たい」という動機で東京凱旋公演を見に行きまして、「とてもおおきなものを受け止めてしまったので書き留めておきたい」の一心で書いた記事で、見落としや記憶違いなど至らない点もございますが、予想をはるかに超えた反響をいただきました。感謝申し上げます。
詩書やハードカヴァーの学術書の標準初版部数はおおむね500部から700部です。今回の記事では、一日で私の第一詩集(『The Illuminated Park 閃光の庭』書肆山田、2009年、第15回中原中也賞最終候補作品、初版500部(なかにしけふこ名義))と単著(『ユリアヌスの信仰世界』慶應義塾大学出版会、2016年、初版700部)の初版部数を軽く超えるページビューをいただき、ほんとうに驚いています。
2.5次元ゆめあなどるべからず。やはり複雑な象徴体系をこめた作品を論評する適切なことばが求められているのだと改めて感じ入るしだいです。

そして18日の大千穐楽ライヴビューイングまで待てず、もう一度見に行きたくなりまして、1月4日のソワレを見てきました。新たな発見が多々ありました。
大人三人の円熟もさることながら、刀剣男士を演じる若手演者のみなさまの上達には目を見張りました。やはり長期公演の醍醐味でしょう。龍馬さんと武市先生と東洋さまについても新たな発見が。
12月21日、1月4日とお席の手配にご尽力くださったみなさまありがとうございます。
さらに審神者の皆様から舞台版の過去作品やミュージカル版のおすすめもいただきました。1月4日ソワレ分、1月18日大千穐楽ライヴビューイング分の記事は追ってUPいたします。

こちらに関連記事へのリンクをまとめます。
12月21日分
その壱(総説)

mmktn.hatenablog.comその弐 シノプシスと作品設定

mmktn.hatenablog.comその参 刀剣男士のみなさま
陸奥守吉行、紅白鳥太刀、和泉守兼定堀川国広

mmktn.hatenablog.comその四 刀剣男士のみなさま(南海太郞朝尊・肥前忠弘)と以蔵さん

mmktn.hatenablog.comその五 歴史人物のみなさま(主に武市先生)

mmktn.hatenablog.com

1月4日分
その壱 覚書

mmktn.hatenablog.com

その弐 薫習の物語、そして龍馬さんと武市先生

mmktn.hatenablog.com


それでは、引き続きご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

ダルカラマクベス(2019年12月22日、KAAT、マチネ) 思想なき恐怖政治と赤いゾンビ

記憶が蒸発しないうちにダルカラマクベスの話をします。ダルカラマクベスとは、才人・谷憲一氏率いる劇団DULL-COLORED POPによる《マクベス》公演のことです。

身に余る栄光を受け止めきれない気弱さがいつか嘘で嘘を塗り固める虚栄にかわるマクベスの墜落を現代の東洋の某島国で思想なき悪辣非道の限りを尽くす某宰相と重ねて描く、社会風刺にあふれる大どんでん返しのオリジナルエンディングつき演出。

使用台本は松岡亨子訳。シェイクスピアの書く言葉はやはりりっぱで、人間の卑小さが招く悲惨すら普遍的な人類の悲劇へと昇華する力があります。

出演俳優を6人に絞り、上演時間を90分に圧縮した慧眼も光ります。

古典を現代に再生させる方法としては良手でしょう。自己規制が息苦しい世の中ではありますが、政権批判を理由に「炎上」が起きないよう、恙無く楽日を迎えられるよう、観衆側で最後まで「ねたばれ」を防ぐ賢明さもありました。

ぴったりと髪の毛を七三に分け、律儀にスーツを着込んだ気弱な人が未来への恐怖と手に余る野望から道を踏み外して嘘を嘘で塗り固めて身近なライバルを皆殺しにしたあげく恐怖政治を行う独裁者となる東谷英人さんの「七三」マクベスと、気丈に夫を支えていたのにいつかファーストレディとなる未来をつかむ自分に陶酔して嘘で嘘を固めて気丈さを鈍感さに塗り替え、貞淑を虚無と放埒で塗り替え、不特定多数の夢見るセレブリティの役割演技にはまりこんでゆく淺場真矢さんの妖艶なマクベス夫人。この二人が圧巻です。

マクベス夫人のセレブリティファッションにも注目です。足裏の赤い12cmヒールにゴージャスなパワースーツや総レースのミディ丈のドレス。権力と富のにおいのする女装です。お風呂に浸かってiPadで夫の栄達の知らせに接して有頂天になる場面も秀逸です。

魔女の誘惑にまんまとのる気弱なマクベスも、野望のステージで輝くみずからを夢見て夫の野望を幇助する夫人も、安手のにほんすごいと安手のスピリチュアルに踊ってありあまる不安要素を見て見ぬ振りをする東洋の某島国の傾国の宰相夫妻にまつわるあれやこれやを想起させます。晩餐会の場面はさながら「桜を見る会」、ピット部分の客席にいる観衆に飲み物と招待状を配って饗応する趣向も共犯感を深めます。

それだけだと実にダウナーな展開になるところ、ダルカラードポップな色合いのバーレスク衣装に身を包んだ三人の魔女が徹底的にトリックスターとして混ぜっ返してくれるのが痛快です。陽気で自由ではつらつと放埒で淫蕩で好色で善悪の彼岸にある存在。現在のウィッカ(魔女宗)の潮流も踏まえた上での演出でしょう。予言を告げる声もマクベスを突き放す声もあっけからんとほがらかですらあります。なんと魔女たちは開始5分でマクベスを襲います。はっはーんこれは性魔術だな、これではあの気弱そうなマクベスが一気に堕ちるのは不思議ではないな、と不埒な笑いが胸に広がります。魔女たちはマクベス夫人、マクダフ/マクダフ夫人(百花亜希さん、後述)、バンクォーの息子フリーアンス(倉橋愛美さん)と二役だったりもします。別人とみるか、彼らの内なるalter egoとみるか。想像が広がります。

魔女たちが歌い踊る志磨遼平さん(ドレスコーズ)提供の劇中歌、きれいはきたないの歌(《マクベスの歌》)もとてもキュート。一度聴いたら忘れられません。ぜひ弾き語りで歌いたいです。


志磨遼平さんによる音楽が雄弁な舞台でした。濃艶な大音量のビッグバンドジャズにグレート・ギャツビー風の富と権力と性の匂いがたちこめ、人倫を一歩一歩踏み外すたびマクベス夫妻の背後にはつめたいピアノの音色でモーツァルトが流れます。

劇中で使用されたモーツァルト作品はKV397(幻想曲c-moll)、KV511(幻想曲a-moll)と《アヴェ・ヴェルム・コルプス》。ブリテン諸島と大陸ヨーロッパの鍵盤楽器音楽の伝統のなかでモーツァルトの音楽に託された「純粋さ」のイメジャリをよく理解した上での選曲と拝察します。

 

バンクォーと医師で2度死ぬ大原研二さんがじつに印象的です。タンバリン叩いて魔女たちと上司の宴会で歌い踊るバンクォーは、点滴を吊って病床にあるダンカン王(宮地洸成さん、ダンカン王の嫡男マルカム王子と二役)にも子供にも優しい忠実なおとうさんですが、魔女の予言に惑わされた上司に勝手に逆恨みされて暗殺され、晩餐会にはうああああと客席右側上方から階段をかけおり、ジェイソンのようなマスクをつけた血塗れゾンビになって登場。宴席を脅かしてなお華があります。殺人の血の染みの幻覚に悩むマクベス夫人の診療に訪れた医師は、立派な声でとうとうと語ったあげく、マクベス夫妻の秘密に気付いて殺されてしまいます。あ、大原さん二度死んだ。あんまりな役柄でからだを張って舞台に苦い笑いをもたらしてなお華があります。大原さんはうまいかたなのでぜひもっと見たいです。

原作通りなら、マクベスの非道な政治を指弾する雄弁な声明を宣べたマルカム王子率いるマクダフとの反乱軍による反撃でマクベスが倒されて大団円ですが、名乗りをあげるマクダフに銃弾一発打ち込まれる場面からまさかの展開に。幕切れ近く、福島三部作第2部の犬のモモ役もわすれがたい百花亜希さん演じるマクダフが原作通りにマクベスを殺そうとすると、マクベス側近の黒服ヒットマンに頭を撃ち抜かれ、「なんでだよぅ」と言って死んでゆく。この「なんでだよぅ」が忘れがたいです。ほんとうに「なんでだよぅ」な展開になります。

マクベスが極東の島国の某首相のように「閣議決定します!」と嘘で嘘を塗り固めるのです。笑ったけど笑えない。人が何人も死んでいるのに。鋭い風刺だけれど、笑うに笑えない。

『福島三部作』につづく現代社会への鋭い応答のある舞台です。英国演劇の洗練された社会風刺の手法が日本語演劇に無理なく接続される痛快さもあり、日本でこういうシェイクスピアがみたかった!という意見に私も一票。社会風刺は演劇の重要な役割の一つでもあります。ダルカラにお任せしないでどんどん続いていただきたい。

開始5分で衝撃の事件、恐怖政治と死者の遺恨と非業の死とゾンビへの変容、alter egoの集積体、現実への批評的なまなざし…プレゼンテーションは全く異なりますが《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》と続けて見ると共通するモティーフも見いだされて非常に興味深く思いました。

ダルカラマクベス、再演時にはあの大どんでん返しオリジナルエンディングを上演しなくてもいい世の中になっているとよいですね。