ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

『テンダー・シング』(東演パラータ、ベン・パワー作、荒井遼演出、2021年2月24日ソワレ)

『ア・テンダー・シング』初日を観ました。

舞台 テンダーシング-ロミオとジュリエットより- 土居裕子 ×大森博史

 

「年齢を重ねてもロミジュリの台詞を発したい」という俳優たちの望みを二人芝居でかなえた戯曲。『ロミオとジュリエット』とシェイクスピアソネットの詩句を換骨奪胎して衰弱と死別を見つめる老夫婦の生活に配置するベン・パワーの筆力とテキストレジストレーションの妙に脱帽です。マーキューシオとロレンツォ神父と乳母の台詞もあった。

土居裕子さんと大森博史さんの演技にみずみずしい生活感があるのがすばらしい。なんと歌も披露してくださる。ずっと波の音が鳴り続ける生活空間を海辺の植物が侵食するかのような装置もチャーミングです。
私はすなおなラヴストーリーをつい穿ってみてしまうほうで、この物語も医療の場面ではじめて神話的な演劇と詩のことばが立ち上がるパターンの話ではないかと予想していました。自分をジュリエットだと思っている老いて衰弱する妻を、自身も老いの憂鬱に囚われながらロミオと名乗って介護する夫の物語なのか、と最初観ながら考えていたのですが、どうも様子が違う。演出家によっては煌びやかな言葉にのせて虚構に遊ぶことで心の平安を保とうとする人の悲哀をはっきりと打ち出せる戯曲だと思いますが、よくよく見ると心中しなかったロミオとジュリエットがともに老いて死ぬまでの常若の愛の物語です。日々愛の出会いと喜びを新たにして贈り物を交わしたり一緒に食事をしたり踊ったり、じつにほほえましく可愛らしい。愛の感情を表に出すことをよしとしてこなかった現実の日本の夫婦たちの佇まいを思うと、むしろその差が息苦しくなるほどで思わず涙が出てきます。

さりげなく介護あるあるシーンを挟むのも心憎い。「失われたあの子」を嘆く乳母の台詞を妻が何度も繰り返して夫に「もうたくさんだ、もういいじゃないか」と言われるところや、妻の食事介助をする場面など、思わず泣けてしまいました。

舞台の上の二人があんまりチャーミングなので、ロミジュリといえば外せない心中場面の適用にも説得力がでます。妻が先に衰弱してゆくので夫も一緒に愛の思い出が鮮やかなうちに死のうとするのがまた痛ましい。心中エンドと見せかけて、ラストシーンに二人が若返った姿でプラトニックな巡礼の挨拶に臨む場面を配したのは絶妙で、まるで永遠の愛の未来へ歩むかのようでした。

まずシェイクスピアのことばが現実の悲惨を包んであまりある煌びやかさ。これがやはりたまらない魅力になっています。日本の異性愛シェイクスピアの恋愛詩の境地をすなおにうけとめるところからやりなおしたほうがいいんじゃないかなとすら思いました。なんならオウィディウスのバウキスとフィレモンでもいいぞ。
ゼロディスタンス演出を要求する内容で、疫病猖獗のもとでの上演に至るまでのなみなみならぬ配慮が想起されます。今回は松岡和子先生の翻訳・監修で上演とのこと、ぜひ戯曲の邦訳版の刊行をお願いしたいです。

ベン・パワーはすごい。ほかの戯曲もぜひ読んでみたいです。

 

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ところで弊本丸の思念体はせべが何かいいたそうにしています。

俺がおそばにいるのに、チケットファイルをよりしろにして観劇にお供するほどなのに、どうしてあるじはラヴストーリーに屈託があるのか。

配信で見たITAのイヴォ・ファン・ホーヴェ『ローマ悲劇』の感想と合わせて彼の言い分をupしましょう。