ホッキョクウサギ日誌

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《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》(2019年12月21日、赤坂ACTシアター、ソワレ)その五 武市先生のおそるべき沈黙

武市先生のおそるべき沈黙

 

超然ととおい雪嶺のように美しい。

武市先生のお話をいたします。彼が作中世界で担う沈黙と語られざる部分の大きさがむしろおそろしいようです。

《維伝》の歴史人物の造型は、司馬遼太郎作品・NHK大河ドラマ龍馬伝》・まんが『おーい!龍馬』などの歴史物語での人物類型も念頭にあるもので、家老然とした吉田東洋の姿にしても、様式美の範囲内で安心して見ていられます。「人斬り以蔵」の造型は司馬遼太郎の同題の小説に拠るものでしょう。服装や言動を通しての身分制の厳格なプロトコルの描写も鮮やかです。

「朧」の人々が史実の1863年以降に起きたことを知っているのも、「朧」人格と「正史」人格ないまぜの発言をするのも、多重世界もの歴史叙述メタフィクションの醍醐味でしょう。

「朧」の世界にあってもみずからの存在の真正性を信じて疑わない「朧」の龍馬や、内戦下の武力組織構成員の悲哀と異形の苦しみを生きる以蔵さんはまだしも共感の扉のある役どころです。
超然と誇り高い武市先生を我々はなんと語ったらよいのでしょうか。

幕末、西洋列強による植民地化への恐怖が社会を覆うなか、尊王攘夷思想に殉じた下級武士が死後、旧友の遺恨によって「朧」の世界に召喚され、長上に恐怖政治を教唆して暗然と権力を握る。しかも志操と高潔さを一歩もゆずらない。とても負荷の高い役どころです。唐橋充さん演じる吉田東洋よりけっしてけっして目立ってはいけない役でもあります。はたしていまどき稀有な崇高美、微妙な階級差の桎梏を、いつかは裏切ると知っている旧友への思いを、たたずまいと背中で語る役です。

 

もし脱藩せずに友を説得して「天誅」を思いとどまらせることができたなら。あるいはともに脱藩できたなら、彼を死なせることはなかったのに。龍馬のこの悔恨が「朧」の世界と「朧」の武市先生を召喚します。

「朧」の世界の人々の具体的な行動は龍馬の思い描くそれぞれの人となりの反映ではあるのですが、けっして龍馬にとって都合良くは展開しません。龍馬から見た武市先生の美質であろう「理想に殉じて死ぬ人」の側面が強調された「朧」の人にしては明瞭なペルソナを備えて彼は龍馬の言いなりにはならないのです。

アテナイの国法の及ばない土地へ逃げ延びて自裁だけはどうか免れてほしい、と懇願する弟子たちをソクラテスが拒んだように、「朧」の武市先生は龍馬に脱藩を持ちかけられても断固断ります。1863年の土佐にはいるはずのない龍馬に彼は語ります。「これはおんしが始めたことじゃ」。「朧」の世界を開いたのも、土佐勤王党を「脱会」して開国論に転じたのも龍馬の始めたことではないか。彼の「天誅」の矛先は友に向けられるようになります。「以蔵、おんしは誰の刀じゃ。龍馬を斬れ」。裂帛の気合のおらびに震え上がるような威厳があります。

 

「朧」の世界に召喚されたがゆえのアイデンティティの混乱に劇中でもっとも深く被弾するのが吉田東洋です。

「朧」の吉田東洋土佐藩のおかれた状況をデタッチメントをもって見通す眼力を持ち、この先尊王攘夷思想に依拠しては藩政も国政そのものも立ち行かないと認識していながら、本意に反して土佐勤王党の首領として武市先生を補佐役に用いている自らに大いに混乱し、繰り返し自問自答します。わしは吉田東洋のはずじゃ。わしはほんとうに吉田東洋なのか。

 

刀剣男士らが刀剣男士であることを東洋と武市先生は知っています。彼らはこの龍馬の悔恨から生まれた「朧」の文久土佐藩にかつて挑んで敗れた刀剣男士たちがいることを知っている。しかも「朧」の人々は刀剣男士同様に想念体の顕現ですから、刀剣男士と互角に戦える。さきの戦いでは別本丸のむっちゃんも敗れたほどです。難攻不落の時空として放棄された時空がなぜ難攻不落でありつづけてきたのに、なぜいま改めて討伐の対象となったのか。この過去の攻防戦のかたちがそれを明らかにしてくれるのかもしれません。

さて、南海太郞朝尊のつくる時限爆弾に被弾して異形のものになったとき、歴史人物はそれぞれにみずからの遺恨を語り始めます。
「朧」人格と「正史」人格ないまぜの混乱のなかで、それでももしここに龍馬が残ってくれたなら、犬猿の仲の薩摩と長州を和合に導いたあの交渉力で戊辰戦争を避けることだってできたかもしれない、もっと平和的な解決さえありえたかもしれないのに、とまで吉田東洋に語らせる場面には思わず息をのみました。
ここには他界の者と異界の者が語り合う夢幻能の境地もありますが、「朧」の異形の者たちの見かけがゴスゾンビなので笑っていいところなのか迷います。

「朧」人格の武市先生はどこまでも寡黙です。

史実では土佐藩の勤王の志士たちに平田篤胤神道創造論神学の書『霊の真柱』を伝え、端麗な詩文の名手としても人に慕われた武市先生ですが、舞台上ではほとんど自らの思想を語りません。異形となっても寡黙です。

「朧」の人を倒す使命を負って南海先生は武市先生に斬りかかりますがなかなかしぶとい。朧の人に興味をもった鳥太刀二振りに助けられて倒したように見えても蘇ってきます。南海先生はふたたび武市先生と対決します。「そういえばこの人はどこまでもまっすぐで少々融通の利かない人だった、信念を曲げない人だった、もとの持ち主と刺し違えるときにはこんな気持ちがするものか、面白いね」。心理作用、という表現に明治大正期の文人の味わいがあります。南海先生はひたすらクールであろうとします。ことばの剣をもって歴史の藪を切り開く私たちの職業倫理を思い出して胸が塞がるようです。

抗いながらも龍馬にささえられて立ち上がる武市先生の慟哭がいたましい。「この[天誅の]刀の向こうには人がいる。この刀は未来を開く刀じゃ」「この国を守ろうと思ってなにが悪いのじゃ」。この先はゆきどまりだ、あきらめたまえ、尊王攘夷思想の未来を知る「朧」人格の吉田東洋に説得され、刀剣男士らに襲撃されても諦めない。「なぜ邪魔するのじゃ。以蔵、おんしは誰の刀じゃ。東洋を斬れ」。

異形となって慟哭してもなお、まっすぐにみずからの使命と信念を問わずにいられない武市先生の美しさは超然と理想に殉じて死ぬ人の美しさです。しかし、2019/20年の審神者たちは史実の彼が傾倒した思想のゆきどまりとその行き場のない情熱の悲しみを知っている。南海先生が我々の代わりにがっくりとうなだれてくださる。

ここでこそ演説の絶好の機会でしょうに、武市先生どうして大演説しないの、先生の文才をもってすればできるでしょう、と思ってしまう私は間違いなく古代ローマものと教義論争史の見過ぎ(読みすぎ)です。憂国文人三島由紀夫テイストで描かない末満健一さんの慧眼にも断固たる信念を感じます。

海の遠くには海しか見えない、ただ外にひらくより未来はない土地で、「朧」の世界の勤王派の志士たちは不可視のみかどを幻視します。使命と信じて昏い眼の暗殺者としてふるまうことで熱誠をささげる以蔵さんの思慕を超然と拒む武市先生の姿は、作中の武市先生が語ることのない、不可視の国家の崩壊をとどめる統治の幻視とついにかなえられることのない志をも想起させます。

ゆきどまりの世の行き場のない熱誠と世界の刷新への欲望と健全な愛郷心のゆくえという、なにかとなかったことにされてきたことを鋭く突きつける。武市先生の役どころはそのような役どころであろうとも拝察します。

歴史学の訓練を受けた者としては、史実と歴史物語と作中世界で亡ぼされるべきものとして描かれる「朧」のあわいに胸がざわざわします。「歴史を守るは刀の本能」という決め台詞にも心がざわめく。20世紀末の大動乱期に、史料を冷徹でかぎりなく禁欲的な知的営為によって分析する(=斬る)ことを職業倫理とする歴史学徒としての訓練を受けた者としてはいたましいくらいに。「朧」の人々の姿に接して情に絆されそうになったみんなに南海先生がつぶやく「僕らは刀だよ?」の一言にはもう胸が抉られるようでした。そして刀の君たちの守る歴史ってなんだろう。

憧憬の概念の出現以前のゆきどまりの分岐を(描かれざるものを含めて)閉じる過程を描くことによって、かの時代の行き場のない、けっして成就することのない情念を鎮魂する物語でもあるという見立てもできそうです。

このおそるべき鎮魂の物語を2か月弱もくりかえすのですよ、そしてオーディエンスは濃淡こそあれみなその場に立ち会う「審神者」のこころを連れて帰る。
途方もないことです。
問いはつづきます。

✴︎

刀ステスタッフの皆さま、神農直隆氏を武市瑞山武市半平太)にキャスティングしてくださってありがとうございます。オフステージでは謙遜でたおやかな人が舞台では透徹した至純の芸によって聴衆(観衆)に深い感銘を与える、音楽の世界でいうヴィルトゥオーゾとはこのような演者のことをいうのでしょう(そして鍵盤楽器界でいえば至難の演目を端然と伝える「超絶の伝統」の人でもあるでしょう)。このような演者に演劇で遭遇出来るとは思ってもみませんでした。
これからも彼がよい戯曲とよい役に恵まれることを念じてやみません。

音響と音楽の覚書をしるしておきます。大規模オーケストラ+合唱の編成による映画音楽的書法のゴージャスな音楽で、部分的にクラブミュージックの要素もあります。ライトモティーフ多用型ではなかったと思います。生オーケストラ生合唱での上演にしたらチケット代が現在の2倍から3倍になること必至です。重低音を強調する音響を多用しての録音劇伴特有の臨場感がありました。殺陣と音楽の連携を不覚にも耳が追いきれませんでしたが、よいオペラ・バレや歌劇に匹敵する陶酔があります。

そして眼と耳が追いきれなかった部分をあきらかにするべく、急遽もう一度見に行くことにしました。ここでてきとうに流しては詩と文藝評論を書く宗教学徒の名がすたる(おおげさ)。どうぞ続編をお待ちください。