ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》(2019年12月21日、赤坂ACTシアター、ソワレ)その四 以蔵さんと肥前くんと南海先生とゴシックカルチャー

その参のつづきです。
あけましておめでとうございます。
ようこそ2020年代。よい時代にいたしましょう。
2019年の観劇納めは《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》とダルカラマクベスでした。2020年の観劇始めは《維伝》大千穐楽ライヴビューイングになりそうです。
長らくごぶさたしていた方々と《維伝》をきっかけにお話する機会もあり、大変ありがたいことでした。そのまま幸福な気持ちで年を越せたことにただただ感謝です。



いよいよ我らが武市先生と南海先生のお話をしなければなりません。
武市先生が徹底的にかっこよくないと内戦下の武力組織下部構成員の以蔵さんもそのalter ego肥前くんも、武市先生のalter egoの南海先生もまったく引き立たないのです。


以蔵さんは武力組織下部構成員として、実戦部隊に加わって「天誅」の手柄をあげることによってしか栄達が見込めない。そこで長上の指示に従って暗殺を繰り返すわけです。刀剣男士となって「朧」の世界に顕現した肥前くんは以蔵さんと共鳴し、ときに共働するように見えますが、肥前くんにも「朧」の世界の以蔵さんを倒す使命がある。南海太郞朝尊の時限爆弾を浴びて異形のものとなった以蔵さんには、もとより実践部隊で人を誅殺し続ける異形の自覚がある。彼らの狂戦士ぶりは長上の武市先生が冷たく高貴な威厳につらぬかれた存在であればあるほど説得力を増します。モーツァルト魔笛》のザラストロが威厳と光輝にみちるほどにモノスタトスの悲惨が際立つようなものです。

(ゴスポイント1、狂戦士と高貴な長上の深い陰翳)

たしかに、「朧」の世界では慕っても慕ってもけっしてふりむいてくれない師を慕い続け、命じられては人を斬り続ける以蔵さんの狂戦士ぶりはせつない。主君への報われない熱誠のために狂戦士になる志士のすがたはまるで文芸復興期の騎士物語のよう、内戦下の軍事組織の下部構成員のみたされない情熱を抱いて斬って斬って斬りまくる以蔵さんとそのalter egoとしての肥前くんの、身体の限界に挑戦するかのような殺陣にはひりひりするような暗い魅力があります。肥前くんは19世紀中葉風のアスコット・タイのかわりに首に包帯を巻いています。日本の二次元ゴシックホラー表象における病と傷つきやすさの徴です(ゴスポイント2、死と傷病のにおい)。

人斬りの悲しみは組織の下部構成員として与えられた使命を果たすほかに道のない人生の悲しみで、ここに共鳴する方も少なくはないでしょう。以蔵さんは異形のものとなってからほんとうは人など斬りたくなかった、「均しの世」をほんとうは求めていたのだ、と語りますが、ほんとうは君だれかに愛されたかったんじゃないの、と思ってしまいます。つねに絶叫調で語らずにはいられない生の絶望感が強く印象づけられます。
南海先生は作中世界の武市先生の柔の部分をいっしんに引き受けるキャラクターですが、近代思想を受け入れようとした幕末文人の集合人格的な側面も感じられます。学者らしいデタッチメントを保とうとしつつもふとみせる感興が優しい。この人がじつは劇中にゴシックホラーの味わいを加えています。

南海先生は「朧の人」をおびき寄せるために罠を鍛造します。罠製造場面がミュージカル仕立てなのが楽しい。「時間遡行軍」を原材料とするこの罠の形状は、そのまま金属質の呪物(ひとがた)で、ホムンクルスのようにも見えます(ゴスポイント3)。それはまた「朧の人」に作用する時限爆弾でもある。もしかすると「時間遡行軍」のなかにはダークサイドに落ちた無数の刀剣男士がいたりはしないでしょうか。

彼が23世紀の技術を用いて作る「罠」が「朧」の人々に作用すると白塗り銀髪和洋折衷ゴスメタルバンドマン風の姿になります(ゴスポイント4)。末満健一さんの台本が想定する23世紀の世界では、「異形」のかたちは天野喜孝デザインのダークファンタジーの登場人物や、ゴスメタルバンド風の白塗り装束で理解されているのか、と深読みせずにはいられません。なお、今回の「朧」となる歴史人物群は史実であればラファエル前派の画家たちと同世代です(ゴスポイント5)。

南海先生は今回「召喚」されている刀剣男士のなかでは唯一「朧」の人々と同時代の西洋の文士やのちの世の和洋折衷文士スタイルを想起させる装束をお召しです。

なんといっても史実の武市瑞山は日本語における「崇高」や「浪漫」や「憧憬」の観念の創出以前に、きよくあけき心と熱誠の情念を経由して端然と崇高な作風の詩文を書いた人、南海先生はその愛刀の「付喪神」です。作中の武市先生のたたずまいが遠い雪嶺のようだからこそ、遠い未来の南海先生はみずからの剣格を鍛える学習の結果としてゴシックカルチャー的想像力をめぐるこのようなヴィジョンを内面化してしまったのではないだろうか(ゴスポイント6)。

仮想の23世紀の世界ではかの時代のネオゴシックの美意識も、20世紀末から21世紀初頭のセキュラーゴシックカルチャーも圧縮して捉えられていて、あの風体に「朧」の人々を変容させることで、日本語における浪漫や憧憬の概念の誕生以前を生きた草莽の志士たちの内なるロマン主義が浮き彫りにされるのではないか、亡霊となってはじめて彼らの遺恨がより鮮やかに語られるのも異界との接触のうちに崇高に由来する畏怖を夢みたネオゴシックの美意識の反映ではないか(ゴスポイント7)。連想は広がります。

(さすがに南海先生の時限爆弾を浴びた神農直隆氏の武市先生がぼろぼろのさびた刀をもち、ざんばらの銀髪にぼろぼろの袴にラファエル前派風のブレストプレートをつけて顔を白塗りにされ、眼の周りを四角く黒くくまどられた姿になったのを見て、あまりのおいたわしさに記憶が朧になりかけました。このレベルで記憶が朧になりかけるとは、私も意外なところで心が乙女だったようです。(ゴスポイント8、崇高なる異形の志士))

ところで、文明の発達により、我々はオフステージの出演者たちの役作りのようすをSNSでかいまみることができます。三好大貴さんと神農直隆氏の応酬には、オフステージでも互いの芸域を学び合い、信頼と協力関係を築いた上で舞台上で元の持ち主とその愛刀の「付喪神」らしさを築こうとする軌跡がかいまみられてじつにほほえましくも胸打たれます。三好さんの南海先生はおそらく作中の武市先生のみならず神農直隆氏の柔の部分も引き受けているでしょう。さらに、一色洋平さんはついに神農直隆氏と幕末風ポートレイトを撮っていました。どこまでも劇画風の以蔵さんと写真を恐れる幕末人そのものの武市先生という構成、じつにこの舞台でのお二人の芸風の対照的な部分がよく出ていると拝察します。舞台に出ない部分でのキャラクター造型にかける営為の大きさがしのばれます。

 

つづきます。いよいよ武市先生のお話をいたしましょう。