ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

夏に見たもの その1 ロバート・アイク《オレステイア》

夏に見たもの その1 ロバート・アイク《オレステイア》

(上村聡史演出、平川大輔訳、アイスキュロス原作、新国立劇場中劇場、2019年6月25日)

 

乖離と記憶喪失と裁きの物語である。神託に従って宿命を甘受する生き方を放棄した現代社会においては、精神医療と司法の場にこそギリシア悲劇の大きさで人間の業の物語があらわになる。脳髄の限りをつくして鑑賞せよ。そのようなメッセージをはっきりと送ってくる舞台だ。

 

法廷で裁かれるために精神分析を受けるオレステス生田斗真)。母殺しの当事者になって記憶を失ったようだ。アイク翻案版のオリジナルキャラクター、医師(松永玲子)がオレステスの記憶を回復するために面接を重ねる。再現ドラマのかたちでそれまでの物語が語られる。

軍功を急ぎ、長い不在の後でも家長としての権威を保とうとする父アガメムノン横田栄司)。家長の妻の威厳を保とうとする母クリュタイムネストラ(神野三鈴)。娘イピゲネイア(趣里、カッサンドラと二役)をアガメムノンの軍功のために生贄にされ(アイクの翻案では医師の幇助を受けてアガメムノンに殺される)、逆上したクリュタイムネストラアガメムノンを殺す。

夫の死についてインタヴューを受けるクリュタイムネストラがカメラの放列のまえで気丈にふるまっている。けれども、カメラの前を離れればアガメムノンのいとこアイギストス横田栄司アガメムノンと二役)と恋仲であることを隠さない。母とアイギストスの関係に気付いたオレステスは姉エレクトラ音月桂)と共謀して二人を殺害する。母殺しまでの過程を思い出したオレステスに医師が指摘する、エレクトラは実在しない、彼の記憶のなかで捏造された架空の姉、alter egoなのだと。お前に姉などいない、エレクトラはお前が作り出した架空だ!と医師は強い声でオレステスを糾弾する。
 記憶を回復し、法廷にひきだされるオレステス。両親、姉たち、医師、父の部下たちが赤い法服に耳を包んで裁判ははじまる(ここでも両親がアポロンとアテナの台詞を語るが、観客側からは相変わらず自分のことしか考えていないようにみえる)。弁論は紛糾するが、原作通りにオレステスは無罪放免となる。

 

舞台の中央にある白い紗幕を張った立方体の幕屋状のスペースが印象的。凱旋したアガメムノンや夫を失ったクリュタイムネストラのインタヴュー会場にもなり、浴槽が設置されていて殺人現場にもなる。このスペース上部に設置されたスクリーンにインタヴューや殺害現場が投影され、開演時を起点とする登場人物の死亡時刻が投影される。サスペンスドラマ仕立てで飽きさせない。第3部では幕屋上のスペースの正面上部に二羽の鷲と兎の紋章をあしらった幡が吊される。二羽の鷲が双頭の鷲に見え、しかも陪審員の法服が赤い長衣なので、なんとなく血塗られたビザンティンのかおりもする。一家のばあや/復讐の女神(倉野章子)の衣裳がギリシア正教の修道女を彷彿とさせる黒衣なのも、そこはかとなくビザンティン風のかおりを加えている。考えすぎだろうか。

横田栄司アガメムノンアイギストスの面目躍如。世田谷パブリックシアターエウリピデス原作《エレクトラ》(鵜山仁演出)のアイギストス役ではほんの一瞬しか出てこなかったが、今回は内なるパトスを伝える台本と堂々たる台詞回しの魅力も加わって大いに堪能できた。神野三鈴のクリュタイムネストラの、制約ある環境のなかで母として一人の女として生活もロマンスも全てを手に掴まずにはいられないたたずまいが凄絶だ。夫を殺した後のインタヴューでカメラの放列を前に気丈な妻を演じながら胸元を見せつつぎらぎら野心をあふれさせる場面が圧巻。裁判長は架空の姉エレクトラ役の音月桂が演じていた。本来の台本ではイピゲネイア役の俳優が演じる設定なのだけれど、この舞台では宝塚歌劇男役出身の様式美を生かして強い女性のalter egoに裁かれる設定に変えていた。

オレステス、イピゲネイア、エレクトラをいずれも大人の俳優が演じている。ギリシア悲劇の業の深い家庭環境に生きる子供たちを大人が演じると、身勝手な大人たちに育てられた子供のいとけなさと寄る辺なさがかえって際立つ。疲弊しきった閉鎖的な社会のなかで成熟を許されない大人たちが抜き差しならない激情に向かってゆく現代の異様さをえぐりだすかのようにすら感じられる。

原作では8年も会っていない背丈も足の形も髪質もまったく弟と同じ姉、エレクトラオレステスの乖離したalter egoという設定であることを初めから念頭において見たらもろもろ辻褄が合う。捕虜となったカッサンドラを、おとうさんあの子を愛人にするつもりでしょう、となじったり、母とその愛人を一緒に殺しに行ってくれたり、あんまりな環境のなかで育ったオレステスがひとりではしたくてもできないことを一緒にしてくれる姉だ。なにしろこの舞台では家族の食卓には最初から椅子が4つしかない。子役でも見てみたかった。
 原作の筋を逐って演じれば4時間半に達する舞台である。大きな物語に酔う危うさについ身構えがちないま、精神医療と司法の場にこそ個人のもっともぬきさしならない極限の悲劇が押し込められてしまっている。そのメッセージはなまなましい。神託と理不尽と激情に振り回される人々の一見荒唐無稽な悲劇を現代人が脳髄を存分に使って理解できるように精神分析サイコサスペンスドラマに寄せた翻案という印象は拭えないけれど、ギリシア悲劇になにかこう大きなエナジーの噴出を求めてしまう観衆にも、その期待自体を反省させる力がある台本だった(先に戯曲を読んでいたので原作との相違点にあまり動揺しなくてすんだかもしれない。レーゼドラマとして読んでも十二分に楽しめる)。台本の翻訳は『悲劇喜劇』2019年7月号に掲載されている。新国立劇場制作のパンフレットの山形治江先生の解説がすばらしい。未読の方はぜひ。

 古典劇翻案ものは事情が許せば見に行くようにしているけれど、お話のなかに連れて行ってくれるものになかなか出会えない。今回も頭を使ってたいへんおなかがすいたけれど、ああ芝居を見た!という気持ちは満たされなかったのでふらふらとすてきなポスターに引き寄せられて《骨と十字架》のチケットを買ってしまった。