ホッキョクウサギ日誌

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《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》(2020年1月4日ソワレ、赤坂ACTシアター)その弐 薫習の物語、そして龍馬さんと武市先生

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》東京凱旋公演千穐楽おめでとうございます。
あの果てしないように思われたタフな公演日程を無事に走り終えられたこと、ただただ感嘆と畏敬をもって見つめております。
千穐楽はライヴビューイングで拝見します。
どうぞ最後までつつがなく務められますよう、皆様のご武運をお祈りしております。

SNSで検索をかけると、そしてみなさまの観劇記を拝見すると、舞台は見る人によって、そして見る日ごとに相貌を変えるものだということが改めて実感を伴って感じられます。私たちのそれぞれに知っているかれらの姿と、知らない彼らの姿を分かち合おう。ひとりの眼にはとてもとらえきれない世界を私たちはどのように書いてゆくのか。《維伝》の記憶の断片をひろいあつめて解像度の高いすがたを導き出すミクロストーリア(マイクロヒストリー)の生成に立ち会っているような気持ちにすらなります。この舞台の仕掛け自体に、歴史と歴史叙述に対する批評的な視点が感じられます。

そして、‪刀剣と史実という着想源へのリスペクトぬきには成り立ちえない作品であると思います。情にほだされるままに人の心を慰撫するあまたの物語に書き換えられてしまうことを全力で阻止する意志の物語でもある‬。だからこそ心を揺さぶられる…とても大きなものをいただいたように思います。

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《維伝》という群像劇の主軸には、元主と出会ってその人生の「物語」に薫習されて霊格/剣格を高めてゆく「付喪神」の顕現体としての刀剣男士それぞれのビルドゥングス・ロマンがあります。
「旧い魂」たちはあまりに永く顕現体でありつづけたので、もはや刀剣体としてのみずからを忘れている。両性具有の「父」・小烏丸と融通無碍なトリックスター鶴丸国永が「若い魂」である土佐刀たちと土方刀たちをおおらかに見守る(この玉城裕規さんと染谷俊之さんの演技がじつに「旧い魂」の自在さと老獪さを感じさせてみごと、もっと見ていたいような気持ちになります)。
それぞれに「朧」の元主たちと遭遇して薫習されてゆく土佐刀たちの物語と対置されるのが、不在の元主への念を試される土方刀たちです。土方歳三という不在の父であり兄である元主への忠誠心を試されるたび、「最後の刀」としてのアイデンティティとダンディズムを強く意識せざるをえない和泉守兼定と、その弟分の堀川国広。「強くて格好いいとは俺のことさッ!」「俺は刀の時代の最後の刀だ…拳銃なんて使うかよッ…くっそう…よーく狙って撃てばいいんだろッ!」田淵累生さん演じる和泉守兼定のきらきらした風姿と歯切れのいい東京西側ことばににじむ矜恃と忠誠心とうらはらなよるべなさがまぶしいようです(小西詠斗さん演じる忠実で折り目正しい弟気質の堀川国広とのタッグが絶妙ですので、彼らと土方歳三とのドラマが見たい。堀川くんの風姿が脇差しの時分の花であるうちにぜひお願いしたいです) 。

「物語をくれ…もっと物語を…」と迫り、鶴丸国永を助ける「時間遡行軍」の彼の正体と、任務遂行後に紅白鳥太刀によって言及される「結の目に入った三日月」の彼の正体は、物語環として舞台『刀剣乱舞』シリーズを見て考察を深めてはじめて判明するように設定されているのでしょうか。旧作のシノプシスを読んだ上で本作を見る限りでも、元主からの薫習の記憶が彼らの霊格を高め、元主や仲間を救いたいという思いが無限の物語のループを生む、という想定が少なくとも物語環のなかに存在することは察せられます。

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《維伝》は坂本龍馬陸奥守吉行(むっちゃん)がセンターの話なのに、こちらでは彼らのことをあまり書いてきませんでした。
その開明性をもってのちに国民的英雄となった龍馬と、彼の実家の家宝であった陸奥守吉行が、龍馬自身の悔恨の世界で「朧」の龍馬と「付喪神」の顕現体として出会う。この邂逅を通して陸奥守吉行の「付喪神」の顕現体が「刀剣男士」としての霊格と使命に覚醒する。この過程は《維伝》の核心にある物語でもあります。
岡田達也さんの龍馬は若々しく春風駘蕩として朗らかです。殺陣も速い。年齢をまったく感じさせない。じつにアラフィフの希望の星でいらっしゃる。
刀剣男士たちがこの龍馬と出会い、そのなさけにふれて打ち解け、心を許しても、ひとたび情にほだされて龍馬の願いを叶えようと思おうものなら、彼らが本来ほろぼすべき「朧」の温存にもつながりかねない。その危うさが伝わります。
今回の一座の座長でもある蒼木陣さんのむっちゃんぶりが、見る度毎にますますまっすぐに闊達でたくましく、龍馬の薫習を受けつつ成長してきたのだなと一目瞭然。とはいえ、この物語は、はじめ「龍馬、おまえには会いとうなかった」と告げるむっちゃんが、「朧」となってもなおどこまでも楽天的で包容力ゆたかな、龍馬の大海原のような人となりにふれるうちに、それでもこの人は朧の人であるならば討たなければならない、とみずからのかなしい使命を甘受する物語でもあります。

「そなたのいま言うたことはみな今のそなたの知り得ないこと、未来のことが今のそなたになぜわかる」と「朧」の龍馬に詰め寄る小烏丸のことばではっとするむっちゃん。「僕たちは…刀だよ?」と南海先生に語りかけられるむっちゃん。

国民的英雄の家宝の刀の付喪神にふさわしい存在となるよう「朧」の龍馬から薫習を受けるむっちゃんの霊格の成長と使命感の自覚の場面は要所要所にちりばめられていて、南海先生や肥前くんの薫習ルートとはまた相異なる様相を示しています。
そして、異形の龍馬にはそれほど異形感がありません。ほぼ原型を留めています。その期に及んでも善意と包容力と進取の気性で人を動かせると信じてやまない。だからこそ幕切れの真剣勝負の場面は悲痛なまでに朗らかです。おんしはわしを討ちにきたのか、わかった、さあ、討て、とおとなしく介錯されようとする異形の龍馬に、どうせ討たねばならぬのなら全力で向かってほしい、と頼み込むむっちゃん。剣と拳銃の二刀流で撃ちあう二人の真剣勝負は晴れやかですらあります。
決闘なのにこんなに朗らかでいいのだろうか。かつてこんなに朗らかな決闘シーンがあっただろうか。
散り際の龍馬におんしの国はよい国か、と問われて、たとえ反語であっても、よい国だあ、と叫ばずにはいられないむっちゃんがじつにけなげです。この2205年の世界は、さまざまなかたちの「歴史改変」が生じて、刀剣男士らが過去の世界に送られなければならないような世界であるのに。「朧」の龍馬のあたたかな人となりだけではなく、厳格な身分制度に対する「朧」の人々のさまざまな抵抗や、人を斬りたくなくても斬らなければならないと嘆く以蔵くんとの遭遇が彼の霊格に与えたなにものかの痕跡でもあるのでしょう。

そういえば陸奥守吉行に「また会えるかもしれない」と言っていた龍馬でした。キャラメルボックスの《また会おうと龍馬は言った》へのオマージュでもある台詞ですが、この世界で発されると意味合いがかわってくる…何度でも何度でも異なる方法で鎮魂されなければならない世界。またあの世の龍馬のたましいに悔恨が兆せば、あの世界は何度でも顕現するのではないかとも思えてきます。

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《維伝》は朧の世界にあるからこそどこまでもすれちがってゆく坂本龍馬武市瑞山武市半平太)の物語でもあります。「朧」になっても、異形になっても、武市先生だけはみずからが「朧」の世界に幼なじみの悔恨によって巻き込まれたことに自覚的であるように思われるのです。神農直隆さん演じるこの超然と気高い武市先生には余人をもって代えがたいものがあります。
史実の武市瑞山が傾倒した復古神道平田国学、そして吉田松陰久坂玄瑞につらなる尊皇攘夷思想は舞台上では暗示にとどまります(承前)。「死んで魂だけになってもこの国を守る」の辞世のことばや、「なぜ邪魔をする…この国を守ろうと思うことのなにが悪いのじゃ…この刀の先には人がいる、この刀は未来を開く刀じゃ」の台詞には『霊の真柱』の他界観や清明心につらぬかれた愛郷心の反映を見ることもできるでしょう。しかし、どこまでもひらけてゆこうとする龍馬とのすれちがいを熱い対話劇で描くにはまた別の舞台が要る。武市先生の背景をあえて余白に託す見識は、彼がなぜそうなのかを知りたい、とねがう読者の応答可能性と思考とを喚起する見識でもあります。少なくとも近代的詩歌作家の概念と西洋近代語からの翻訳語としての「崇高」「浪漫」の概念の到来以前の、理想国家の建設のヴィジョンに殉じる、和歌と漢詩を詠む剣術師範であったということを念頭において見ると彼のたたずまいにすこしく近づけるかもしれません。
史実部分の群衆にまぎれて朗らかでひたぶるな使命感に燃えて視線をかわしあう龍馬と武市先生。吉田東洋暗殺の教唆の嫌疑で割腹を命ぜられ、死んで魂だけになってもこの国を守る、と言って潔く割腹する武市先生(高潔な割腹シーンで、少なくとも私にとってはこれまで見てきた割腹シーンの印象が上書きされるものでした)。この史実場面での彼の生身の人間らしさが、「朧」の世界では氷に閉ざされたかのようにどこまでも冷たく旧友を突き放すおもざしへとかわってゆきます。
死なせたくなかったのに、説得に応じてほしいのに、どこまでもすれちがってゆく存在として龍馬の悔恨のなかで武市先生が回想されてしまうのがいたましい。あの悲痛に冷たい威厳に貫かれた姿で回想されて「朧」として顕現するのがいたましい。「坂本龍馬ァ…またおんしか…以蔵、龍馬を斬れ」「以蔵、おんしは龍馬を斬れるか」。不可視の霊的国家のヴィジョンを統合原理としてまとった武装組織の参謀役で、恐ろしいようなお立場を貫く役なのに、みずからの手で分岐を終わらせようとする決然たる意志があの凜々しい背筋に感じられて、眼が離せなくなります。

深海のような青い光のなかの無数の目にみつめられての「龍馬、またおんしか…これはおんしが始めたことじゃ」。龍馬に脱藩をあかるく持ちかけられての「脱藩じゃと。龍馬、おんしはわしを莫迦にしておるのか」。龍馬に説得されて脱藩して、激動の19世紀の大海へと限りなくひらかれてゆくユートピアをともに具現化させてしまったら、この歴史の分岐は終わらない。ここで二人が語り合って和解に達したなら、「朧」の世界はどこまでも続いてしまうから、歴史はまったく書き換わってしまう。だからこそ史実通りにみずからの理想に殉じることで、龍馬の鎮魂されることのない遺恨と迷いが何度も生み出した世界を、朋友であった龍馬をかぎりなく突き放すことでこの手で確信を持って終わらせようとする。舞台上では寡黙な武市先生の背中ににじむかなしみから眼が離せなくなります。
あえて懐刀の以蔵さんに天誅の力によって世界を閉じる役割を担わせた結果、武市先生の言動は以蔵さんと彼の愛刀の付喪神肥前くんの意外な思いを引き出してゆきます。拝跪とともに敬愛を注がずにはいられない長上の命令であっても、大切な友達を斬りたくない、斬らないですむならもう斬りたくない…これは武市先生にとっては史実の以蔵さんの裏切りに近づく過程でもあるのでしょうか。「以蔵、おんしは誰の刀じゃ。東洋を斬れ」に至って「朧」の武市先生の意志は史実と合流するかのように見えます。

ことばの剣をかわしあえれば理解し合えるかもしれないのに、あえて自らの手でこの「朧」を終わらせるためにかたくななまでに超然と理念に身を委ねる武市先生。異形となって紅白鳥太刀や南海先生に討たれても、龍馬に支えられて抗いながら舞台の奥へ去ってゆく武市先生。名台詞「なぜ邪魔をする…この刀の向こうには人がいる、この刀の向こうには未来があるんじゃ…」の慟哭も、乱世においては闘わなければ得られないものがあるという信念のあらわれであると同時に、断固としてこの手で「朧」を終わらせなければならないという意志のあらわれでもあるでしょう。

ほんとうに、もう、武市先生は、どうしてそちらへ向かってしまうのか、そちらへ向かわなければ世界が閉じないから彼はそうしているのだ、とわかっていても、悲痛で息を呑みこんでしまう。東洋さまと以蔵さんと武市先生が迎える「最期」へつらなる長い戦闘場面の劇伴があの舞台の上に光の柱が立つかのような音楽であることは、大いに意味のあることでしょう。「武市さん、もうあきらめるんじゃ、尊皇攘夷ではもうこの国はたちゆかぬ」から「龍馬…おまえにはかなわんぜよ」に至る諦観のふくらみが、音楽によって昇華されるかのようです。

武市先生の遠い雪嶺のようなうつくしさを思い出すたびかなしいしんとした気持ちになるのですが、やはりほんとうに大変な役どころです。絶妙のバランスで「朧」の世界にリアリティを与えるだけでなく、剣術師範に見えなければならないので重量感と威厳のある殺陣も披露される…カーテンコールでふんわりなさる神農さんのお姿を拝見するだけでもどれほど大変な役どころか容易に想像されます。最後までお怪我がないことを祈っております。

それにしても末満健一さんの台本が登場人物に注ぐまなざしのあたたかさに改めて思いを馳せざるを得ません。ゴシックホラーとダークファンタジーのテイストもある歴史叙述メタフィクションものと温かいまなざしは両立しうるのです。人が人を想うということ。往年のキャラメルボックスの舞台へのオマージュでもあるでしょう。リアルタイムでキャラメルボックスに接してきたファンとしては、ここにその思いの継承者を見る思いです。言葉の剣をもって事象を斬る訓練を受けてきた人文学徒としては、「僕たちは…刀だよ」「歴史を守らない刀は刀じゃあない、俺は刀だ」とことばに出さずにはいられない刀剣男士たちの述懐に、情をふりきっても「朧」を斬らなければならない使命感をふるいおこす彼らの思いの描写に、胸を抉られるような感慨を憶えます。

以上のお話をあの素晴らしい殺陣と疾走感ある場面転換に盛っているのです。舞台作品としてはまさに正攻法の手法をとりつつ、批評的視点を人それぞれの広さと深さをもって実感させる作品世界はもはや現象と言ってよいと思う。ゲームや舞台から入った人に文語文と格闘しても『霊の真柱』を読んでみようと思わせる力がある。これはすごいことです。

途方もないものを見ました。いま日本で見られる傑出した舞台の一つであると思います。

《維伝》関連記事に「パブリック・ヒストリー」タグを貼った事情についてはまたいずれ。

零細文人ではブログに壁打ちや「薄い本」制作が関の山ですので、メジャー媒体にどなたかきちんと評を残してくださることを期待します。


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ところで、史実の龍馬さんと武市先生は、江戸で出所のあやしい金時計を拾って売り飛ばそうとしておとがめに遭いかけた共通のいとこ沢辺琢磨を箱館に逃したりもしています。沢辺琢磨は史実龍馬さんの父方のいとこ、史実武市先生の奥様の母方のいとこです。
1857年、箱館に逃れた沢辺琢磨は1861年に来日したロシア正教会の宣教師ニコライ・カサートキン(のちの亜使徒聖ニコライ)に邂逅し、攘夷思想をすてて1868年に正教徒となり、日本における正教伝教者の草分けとなりました。その人生はやはり壮絶なものでした。草莽の志士の親戚ならでは、と思わざるをえません。
史実の龍馬さんと武市先生にはそんな時期もあった、と考えると、これまで何度も召喚されてきた「朧」の世界のなかで、「一緒に脱藩しよう」の誘いが成功する分岐を想像する観衆や審神者のみなさまもいらっしゃるのではと想像します。
だめです、キリスト教再伝来史視点で朧を混乱させるのは。

だめですったらだめです。