ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

EPOCH MAN 《鶴かもしれない2020》(2020年1月12日、駅前劇場) 現代の民話が立ち上がる場所

小沢道成さん作・演出・主演の一人芝居です。2014年初演作品の再再演とのこと。

鏡面仕上げの床のほのぐらい舞台と一面の大小の暗い鏡張りふうの額からなる壁に囲まれた部屋で、3台のラジカセとの「対話」とともにまっすぐに破局へむかってすすんでゆく、恋愛の一回性に夢を見る自己肯定感の低い若い女性の物語に読み替えられたビターな『鶴の恩返し』。
ヴィジュアルはほぼこの劇団ウェブサイトの雰囲気。才人の作品です。
三台のラジカセから流れるラジオドラマのようなナレーションと、そこにいるはずの見えない「恋人」の声との対話に、民話の悲恋譚に対する批評的な視点があります。

たまたま助けてくれた売れないバンドマン「ヒロくん」のところに、とても美しい娘「鶴子」が押しかけ女房となってやってくる。髪型は半分ボブで半分ツーブロック、黄金に見える着物をノスタルジックなワンピースの上に羽織った彼女は、ラジオから流れてくる『鶴の恩返し』の朗読に導かれるように、家父長制的な村を描く民話の価値観に身をなぞらえるようにして尽くしに尽くす。ラジカセから流れてくる生活音への呼応と姿の見えない「ヒロくん」の声への応答にはいっさいの乱れやほつれがない。おそろしいくらいに鋭敏です。
バンドマンであるからには一度はアメリカへ行ってみたい、そこで自由を感じたいと夢を語る「ヒロくん」の話を聞いてしまってスイッチが入った彼女は、彼の夢のなかにいよう、愛されようと文字どおり「身を毟る」ようにして貢ぐ。贈り物が豪華になってゆくにつれて、ついに「ヒロくん」は「鶴子」の「身を毟る」お仕事の実態を知ってしまう。極彩色の光のなかで踊る「鶴子」。健全に愛されて育った彼は「鶴子」がなぜそこへ向かってしまうのか理解できない。そんなことまでしなくても、という願いが届かない。ついに二人のペルソナが直接に言い募ります。半分ボブで半分ツーブロックの横顔の、両性具有的な風姿で。

最初にあらわれる「鶴子」は年齢不詳の異形の人にも見えます。足袋を履いて和服を羽織った姿には、古典芸能の狂女類型への言及も見えるようです。「鶴子」のたたずまいからは、自己肯定感を徹底的に剥奪されてからだの痛みも押し殺して生きてきたのであろう来し方がひりひりと喚起されます。
「ヒロくん」のバンドの代表曲《どん底》は貧しい生活の悲哀を歌う歌です。生活の悲哀を歌っても「ヒロくん」の歌とたたずまいにはどこか明るい希望が兆すのに、「鶴子」が真顔で歌うと冗談にならず、歌の境涯に誘われるように「ヒロくん」の身辺を物質的に豊かにしたいと願って「身を毟る」お仕事へとむかってゆく。一人芝居だけにこの対比と転換がますます鮮烈です。自己肯定感の薄い若い女性がひたすらに愛されたくて恋人に破滅的な自己犠牲のかぎりを尽くす痛ましさ。鶴となって飛び立つことさえできず、ひたすらに人間の身でこわれてゆく偶然の恋人を受け止めきれないバンドマンの悲哀。現代の民話の立ち上がる場所が見えるようです。

小沢道成さん作・演出で『遠野物語』を着想源にした作品が見てみたい。現実の悲惨を寓意や比喩で包む悲哀に事欠かない収集例がこの視点で読み替えられるさまをぜひこの目で見てみたいような気がします。

1月13日までです。別演出での横浜公演も2月に行われるとのことです。