ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》(赤坂ACTホール、1月4日ソワレ) その壱 覚書:音楽と音楽的なるもの、朧なるもの

《舞台刀剣乱舞 維伝 朧の志士たち》。1月4日ソワレに行ってきました。

寝かせておくと東京凱旋公演が終わってしまうし、なんと冬休みがもう終わってしまった。昼は宗教学/キリスト教学のせんせいです。締め切りを斬らねばならぬ。
なので書いてしまおう。以下覚書です。

 

・大人三人が深みを増し、刀剣男士の皆さまがこの二週間ですばらしく上手くなっていました。これはほんとうに長期公演ならではの醍醐味だと思います。
 一発でハイ・パフォーマンスを求められる日本の単発オペラ公演を見慣れております。時間をかけて舞台を熟成させるこの長期公演システムを日本のオペラ界にも実現できるようなシステムの導入を期待せずにはいられません。
・堀川くん(堀川国広)の発声が向上、兼さん(和泉守兼定)の深みと軽い響きのある発声が素晴らしい。二人ともインカムマイクを通しても決して濁らない発声なのが好ましいです。
 多摩川中流域北岸出身者にとっては土方歳三は郷土の英雄です。彼の愛刀の「付喪神」のお二人が凜々しい東京/相模・多摩川中流域方言で喋るのが嬉しい。特に兼さんの台詞回しはなかなかいそうでいない東京の西側の快男子の話しぶり、胸が空くようです。

・「本部」からの特命を告げるひぜんくん。朱いマフラーを巻いています。刀剣男士七振りの紹介ののち、「朧」の土佐に降り立つ土方刀・紅白鳥太刀・(坂本龍馬と対決したくなかった)むっちゃん。本部から派遣されたひぜんくんが迎える。本部から南海太郞朝尊(南海先生)が派遣される。罠を作る。登場順はこの順番であったような。

・南海先生の剣格は、あまり接触のなかったであろうもとの主のことを後天的に学ぶうちに、もしもとの主が尊皇攘夷思想から転向して開国後の世界に永らえたならば近代思想と自然科学を積極的に学んだかもしれない、という理想化された想定を内面化するに至り、旧制高校文化を生きる近代煩悶青年的なペルソナとして形成されたものかもしれない、という見立てができそう。第二幕の殺陣が非常に軽やかでひたむきでスマート。

・《魔笛》がすきなのでまた《魔笛》にたとえますが、ひぜんくんといぞーくんが並んだときのダブルモノスタトス感が深い。かれらのやるせない報われない世界の深さを映す人物造型であると思います。《魔笛》ならザラストロは「朧」の吉田東洋御大、「朧」の武市先生はザラストロの側近の神官といった役どころ。あるいはこの二人がザラストロの複数の側面なのかもしれない。やはり東洋さまがスケール大きく包容力深く、武市先生が超然とりっぱであればあるほど、ひぜんくんいぞーくんの悲しみが際立ちます。

 

衣装・照明・音楽

・異形化後の東洋さま、武市先生、龍馬さんの上半身はブレストプレートでなくて和装に西洋風の腕当てですが、とてもネオゴシック趣味に見えます。歴史人物の異形後の装束のボトムスは裾がぼろぼろの袴です。一瞬スカートに見えるくらい。

・今回は一回後方の立ち見席、照明・音響コンソール脇で見ました。プロジェクションマッピングと照明が素晴らしい。雲と建築のサンプリング画像、青い筆跡で描かれた無数の眼の画像、「朧」の世界に合わせて暗色と濁色強めにした雨や雪の画像処理が2205年の未来からみた(という設定上の)幕末のヴィジョンを伝えます。後方の座席から見ると照明の色合いの澄んだカクテルが強く印象に残ります。

・多様な様式を用いたダイナミックな劇伴で、やはり耳が追いつかないところが多々ありますが、和太鼓のリズムパターンを援用したリズムセクションに沿って殺陣が設計されていることは窺えます。殺陣部分の音楽の浮遊感を和楽器(横笛類)も用いた息の長い高音域の持続音と三味線のカッティングが支えます(鼓的なものも聴こえる)。ライトモティーフ不使用、初期シェーンベルク風の音楽もあった。遡上した時代にはまだ存在しなかった様式の音楽がさまざまに用いられていて、意図を知るには丁寧にサウンドトラックを聴く必要があるのかもしれません。

・第一幕、南海先生の罠制作ワークショップ場面も様式を先取りして21世紀初頭ふうのクラブミュージックに。
・第二幕の幕切れ近く、東洋さま武市先生以蔵くん討伐の場のほか、龍馬さんむっちゃん対決シーンの冒頭で、澄んだ女声合唱(?)つきのコラール風の楽曲が使われているところが非常にスリリングです。光の柱が舞台に立つような響きのなかで、武市先生の慟哭の場があって胸をえぐられるよう。様式が時代を先取りしています。近代フランス和声以後、アンビエントミュージック風にも聞こえます(ふわーっとした音響のひろがりはフォーレ《レクイエム》の《In Paradisum》を連想させるけれどむろん全然違う曲)。史実ほぼ同世代の管弦楽法を想起させる様式で書かれた史実部分序曲の劇伴がとてもよい。

・幕切れの2205年の「本丸」の日常場面、エンディングテーマに先立つエリック・サティ風(《グノシェンヌ》オマージュ作品?)のピアノ曲がとても不穏で素敵です。ぜひ譜読みして持ち芸にしたいです。

 

「朧」なるもの

・2205年には何らかの理由で「歴史改変」がさかんに行われるようになり、審神者を通して刀剣男士が歴史の分岐点に派遣されるようになった(と聞こえました)。ここに基本設定。

・歴史上の分岐のなかで、さまざまな事情によって生じた底から先へはゆかない行き止まりの世界への思いを刀剣の付喪神たちを派遣して「供養」する物語環の一部であることが明確に伝わります。龍馬の遺恨によって生じた世界であることを吉田東洋と武市先生は知っている。吉田東洋アイデンティティのゆらぎを通して自らが「朧」の世界にいることを知り、第二幕後半の異形のすがたとなった朧の志士たち討伐の場で、「武市さん、もう諦めなされ」と「朧」の世界でも尊皇攘夷思想がゆきどまりになりつつあることを開示する。武市先生は「朧」の世界を開いてみずからを召喚したのが龍馬であることを知っている。アイデンティティのゆらぎがないように見える、あるいはアイデンティティのゆらぎを見せない。龍馬の説得に応じるどころか、おそろしいくらいに「朧」の世界のほろびへむかって確信をもってまっすぐにすすんでゆく(龍馬の説得に応じると「朧」の世界は終わらなくなる)。

そして、刀剣男士と「朧」の世界が「召喚」技術を用いて作られている(思念の力によって作られている)ことをこの二人のほかに南海先生や鳥太刀も気付いている。このモティーフを丁寧に追うことで、あったことをなかったことにせず、行き止まりの世界を行き止まりの世界として描く技術の妙が見えてくる。もうちょっと丁寧に考えてみたい。

 

歌のヴィジョン

・オペラ的な構成を意識して見ると展開が理解しやすくなるかも。

武市先生に印象的なショートアリア的モノローグ複数。史実の彼が歌人/漢詩人だったことを想起しつつ見ました。オペラだったら歌わせるところですが、ストプレで場面転換が速いのがもったいない。

そして、東洋さまの自問自答もオペラならすごいレチタティーヴォになるところ。最後の龍馬さんとむっちゃんの決闘も圧巻の二重唱になるところ。

(私には詩を書くスキルと歌ってピアノを弾くスキルはあっても作曲のスキルがないので、ああこれはオペラなら歌うところだ、と思ってもオマージュ作品を音楽で書けないのが残念です)

・歌う武市先生のヴィジョン

序幕:切腹シーンの「死んで魂だけになっても」。これで心を奪われます。
平田篤胤『霊の真柱』がおそらく着想源で、神道的世界観における幽冥界への帰還の意ですが、そこで「魂の回帰」じゃないかあら素敵、と思ってしまう私は明らかに新プラトン主義文献の読みすぎです。それにしてもそこにはいない龍馬に命乞いをする以蔵くんの死に際が賑やかすぎ、もっと武市先生の辞世をじっくりきかせてほしい。武市先生は史実通り三回割腹。白装束を染める流血を朱い照明で表現。

第一幕:青い「朧」の世界の光。青い線画の無数の目に見つめられる武市先生。「龍馬…そもそもはおんしがはじめたことじゃった…龍馬…」。
ここもすぐ「もっと物語をくれ…」の時間遡行軍のモノローグに切り替わってしまうのですが、いいところなのでもっとじっくりきかせてほしい。惜しい…

第二幕:武市先生討伐の場は3部構成。
たのしそうにおどろきをもって「朧」の志士討伐に臨む紅白鳥太刀に討たれて下手の建物の壁に崩れる武市先生。以蔵くん肥前くんによる武装勢力下部構成員の裏切られた熱誠への怨嗟と自由の希求の二重唱をはさんで2回目、南海先生が刀の柄で武市先生を上手中央寄りの建物の壁に崩す(「融通の利かないまっすぐな人だった…もとの主と刺し違えるとこんな心理作用が働くものなのか、おもしろいね」はこの場面)。すかさず駆け寄る龍馬。龍馬に支えられ、抗いながら舞台奥へ消える。この世界を作り出した龍馬を「消す」ために旧友に刃を向けなければならない悲しみ。各刀剣男士の時間遡行軍との殺陣をはさんで3回目、吉田東洋・武市先生・いぞーくんがあらわれる。紅白鳥太刀と南海先生に斬りかかられる武市先生「なぜ邪魔をする…この刀の向こうには未来がある…この国をよくしたいと思うことのなにがわるい…」東洋さま「武市さん、もう諦めなされ」武市先生「東洋…以蔵、おんしは誰の刀じゃ。東洋を斬れ」(南海先生がっくりと首を垂れる)…行き止まりであることが判明している世界の、行き止まりを、武市先生のほこらかな矜恃の悲しみを、鮮やかにえがく場面。どうしてそちらへむかってしまうのか、と息をのみつづける。(重量感のあるタフな殺陣の連続のなかで、ここもショートアリア的な台詞を重ねて内心を吐露する場面、ライヴビューイングのカメラワークが楽しみ)

 

「朧」なるもの
・龍馬が徹頭徹尾善意を貫いても「朧」の世界でもかつての同志たちを説得できない展開。龍馬の善なる意志によってすら変えられない行き止まりの世界。未来を知る龍馬の希望的観測のなかにあってもなお断固龍馬の説得を拒んで「以蔵、龍馬を斬れ/東洋を斬れ」と告げる白き手の参謀として回想される武市先生のヴィジョン。2205年からきたむっちゃんに龍馬が問う、「おんしの国は、よい国か」。むっちゃん「よい国じゃあ」。絶叫。作中の2205年は「歴史改変」の分岐点への遡行を必要とするような社会であるのに、この絶叫は。この点をもうすこし丁寧に考えてみたい。

無限に生成される死者の悔恨が生み出すゆきどまりのかなしみが、ゆきどまりの武器であった剣をもって成敗されなければならないようなすさまじい世界に、未来から来るあのきららかなかれらは住んでいるのだ、そして私たちはそのようなヴィジョンを欲していたのだと知るとき、こころにしずかな慟哭が玻璃を破るようにひろがってゆく。けれどもそれは劇場を去って何日もたってからのことかもしれない。しずかな慟哭の玻璃の破れ、の訪れ。

パンフレット、ほか
・末満健一さんの脚本が確実にゴシック・ホラー/ダーク・ファンタジー好きの琴線に触れてこられる。怖いようです。パンフレットは購入されることをお勧めします。2500円の価値はあります。写真が美しいし設定集が重要です。

・回収しきれなかった部分:他作品との連続性。鶴丸と刀をかわす「もっと物語をくれ」の時間遡行軍の正体、三日月にちなむ名をもつ刀剣男士、「円環」に巻き込まれてしまった刀剣男士、この本丸がどうもお取り潰しによくならないなレベルの本丸らしいこと…前作までの円盤を見るともっとよく分かるのでしょう。

・後でもうすこし読みやすくするかもしれませんが、ここから先は(私が納得するための作業として)短歌連作にするかもしれません。(学校がはじまりますがたぶん)何らかの形でつづきます。