ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

夏に見たもの その2 《骨と十字架》(1)

夏に見たもの その2 《骨と十字架》
(野木萌葱脚本、小川絵梨子演出、新国立劇場小劇場、2019年7月12日、26日)

 

生物学者で神秘家のイエズス会士、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの壮年期に取材した作品。
《オレステイア》を見て釈然としなかったので《骨と十字架》のチケットを衝動買いした話は「夏に見たもの その1」に書いた。まわりの演劇研究者や演劇好きの注目も熱く、宗教学徒としてこれはみなければの勘がはたらいた。A席一枚、できるだけよい席を、とお願いしたら、新国立劇場ボックスオフィスのおねえさまに「主演が予定されていたキャストではないのですがよいですか」と訊かれて、ええいいですよ、と返答して正面の席のまんなかあたりを発見して貰った。 

主演の神農直隆さんがお声も姿もじつに涼やかで美しかった。「むこうにオベリスクが見えるでしょう…私たちもあのように異教のものに十字架をむりやりつけるようなことをしてはいないでしょうか、というようなことをね、考えていました」。この第一声で心を掴まれた。
史実のテイヤール・ド・シャルダン本人も長身の美丈夫で、クラヴサンの響きのような陰翳のある、よく通る声の主だったそうだ。生前は地球科学者として業績をあげつつ、破格にスケールの大きい神秘思想系の著作は帰天するまで文書のかたちで公表を許されることがなかったという。しかも伝記や本人の著作を読むと不屈の向日性の宿る大きな澄んだ魂が感じられる(折口信夫ふうに言うならば、テイヤール師の文章を口ずさめばすずやかに燃える珠のような味わい、掌の上に載せれば珠のなかからぼうっと大きな瞳がとくとくと脈打つキリストのみこころとともにこちらを覗いている…)。そういう人に見えなければならない、よくぞこんなにたいへんな役を、しかも2週間で宛て書きレベルに仕上げてこられるとは、とただただため息しかない。

そして、伊達暁さん演じるエミール・リサン神父もすばらしかった。明るい母音と円いフレージングの日本語のディクション、しごとのできるビジネスマン風のたたずまい、発掘に行けば銃を担いで警告ののろしをあげる…「きづいてしまえ!きづいてしまえ!おまえはいつか気付くはずだ、おまえが気付いたとき、おまえはいつかおまえの神をすてる!」「いっしょにいのらせてくれませんか」「どこへいらっしゃいます」…良い台詞が彼にはたくさんあった。リサン神父の台詞だけでひとつ記事が書けてしまう。 

12日には休憩時間以後、なぜだか強く乳香の煙のかおりがした。劇場側では特に香を焚いていたわけではなかったという。もういちど確認したいことがたくさんあって26日にも右サイド席の前列をとって見にいった。全てが揃った奇跡のような舞台に立ち会う幸福を得た。 

しまった、このままでは神農直隆さんと史実のテイヤール・ド・シャルダンがいかに素敵かの話と、そして伊達暁さんのかっこいいリサン神父と史実のエミール・リサン神父の虚実のあわいの話で何千字も書けてしまって行っていないひとにはなんだかよくわからない記事になってしまう。

カトリックの先生方が集うメーリングリスト向けに配信した紹介文を改稿した文章を貼ります。(したがって萌えは控え目です)

 

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思想主題による熱い会話劇を得意とする女性劇作家の作品を、新国立劇場演劇部門の気鋭の女性芸術監督が演出することもあり、周囲の演劇好きや演劇研究者からの注目も高い舞台で、なによりテイヤール・ド・シャルダンが主人公ということで見に行きました。

台本、演出、俳優、美術、衣裳、照明、音楽、すべて揃った美しい舞台で、7月12日に一度見ただけでは物足りず、千穐楽近くの7月26日にもう一度見に行ってしまいました。

 

教皇ピウス12世の回勅「Humani Generis」公布によって学問としての進化論をカトリック教会が認めるようになったのは1950年。今回の舞台はそれ以前の設定です。

イエズス会に警戒されたテイヤール・ド・シャルダンが中国に派遣され、黄河流域での発掘調査をともにしたエミール・リサン神父と決裂し、北京を拠点とする周口店遺跡の発掘に参加して北京原人の頭蓋骨の発見に関わるまでの1923年から1929年までのできごとを中心に描かれていました。

この場面を意見撤回要請のためのローマへの召喚場面で挟む構成です。

史実では1923年と26年に個別に意見撤回誓約への署名要求がありましたが、テイヤールのローマ上陸(イエズス会本部への召喚)は戦後の1946年と48年です。作劇上の要請からこれらのエピソードを圧縮したと拝察します。

  

近代主義論争を主題に、学知と信仰の統合を求めて歩んでゆく登場人物それぞれの義を鮮やかに描いて一方的な悪者を作らない作劇で、思想の描写にも不自然さを感じることなく見られました。

制作にあたってはドミニコ会イエズス会に取材したそうです。

劇作家の直接の着想源となったアミール・アクゼル『神父と頭蓋骨』(好著です)に加えて、クロード・キュエノ『テイヤールの生涯』を深く読み込んだ台本と拝察しました。

 

配役がじつに巧みで、モデルとなった史実の人々の写真をよく研究して、頭蓋骨や骨格のたたずまいがよく似た俳優を抜擢していたかと拝察します。前田文子さんによる衣裳デザインが鮮やかです。

実際に神父さまがたがお召しのものよりも軽めで落ち感のある素材を使ったスータンの造型が惚れ惚れするほど見事でした。

ご覧になったかたはご存じかと思いますが、主演の神農直隆さんの佇まいがじつに端然と涼やかでした。貴族出身の20世紀の宇宙的頭脳をそなえた神父に見えなければならない役でしかも各種の伝記を読む限り史実でも「みんなが彼を好きすぎてすごい」。そんな心細やかな美丈夫をよくぞここまで演じきった、と唸りました。

6月20日に代役として今回の登板が決まったとききましたが、まったく代役であることを感じさせませんでした。わざおぎは役の器とはこのことかと思いました。

テイヤール・ド・シャルダンの論敵、レジナルド・ガリグー=ラグランジュ神父も劇中に登場します。近藤芳正さんが演じておられます。トミズムと初期近代の神秘思想と修徳思想の接合と普及を唱えて矛盾なく学知と信仰を統合する伝統主義者の思考が簡潔な台詞でみごとに切り取られていました。

自然神学の立場から新しい神秘思想を拓こうとするテイヤールとはガリグー=ラグランジュ神父は徹底的に相容れないのですが、この討論の場面も説得力がありました。

ガリグー=ラグランジュ神父とテイヤールは1946年にローマで初対面して故郷の話で話がはずんだというエピソードがありますが、このエピソードを援用した「あなたは、地平線を見たことがおありですか」のテイヤールの台詞ではじまるシークエンスが、それぞれの探求のルーツを想起させる印象的な台詞とともに幕切れ近くに配されていたのも巧みです。

北彊博物院(天津自然博物館の前身)の設立者で天津でのテイヤール・ド・シャルダンの同僚だったイエズス会士、エミール・リサン神父も劇中に登場します。所属修道会に警戒されてフランスで行き場のなくなったテイヤールを中国に誘いますが、より充実した研究環境を求めたテイヤールに去られてしまう役どころです。史実のリサン神父は古生物学を学ぶかたわら中国に憧れて中国語と中国の文物を学んで天津に派遣された人で、生活力旺盛で探検家気質のばんからなところもある方だったようです。伊達暁さんが仕事のできる闊達なビジネスマン風の風姿で、思考も心も自分の手の届かないところへ行ってしまう同僚への懊悩を演じておられ、たいへんに魅力的でした。

若き日のアンリ・ド・リュバック神父が劇中に登場します。佐藤祐基さんが演じておられます。テイヤール先輩を仔犬のように慕いつつ、先輩が理想の先輩でありつづけるためにさまざまに画策する役どころです。

小林隆さんが演じたイエズス会総長は、自らは伝統主義者の立場ながら、近代主義者との調停をはからなければならず、組織の頂点にありながら見る景色は意外に小さいものだ、と述懐しつつもなにかと「穏便にね」を連発しつつ、近代主義に傾く部下たちを慮る役どころでした。史実のウロディミル・レドホフスキ総長は1943年に帰天するまで37年間イエズス会総長の座にあった方です。劇中では1929年に引退する設定になっているのは、前述の戦後のエピソードとの圧縮からの要請でしょう。

登場人物がお互いの視線をしっかりと受け止めながらそれぞれの生の真実と大きな想いを託すことばをかわしあうところが大変魅力的で、一ヶ月を経てもまだ余韻が残っています。

往年のテイヤール・ド・シャルダン熱を知る先輩の皆様には物足りないところもあるかもしれませんが、当時のことを文献や先輩の皆様のお話でしか知らないニューカマーカトリック信者としては大変興味深く見ました。

 

普段は小劇場演劇を見に行かない層にもSNSを通して評判が広がり、チケット完売の日が続出するという、新国立劇場演劇部門の集客史上画期的な場面にも立ち会うこともできました。

日本における近代カトリシズム表象の受容史に新たな一頁を記すプロジェクトと拝察します。

台本は新国立劇場の資料室に配架されているとのことです。

初演メンバーでの再演と台本の刊行が実現することを願ってやみません。