ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

関口凉子×港千尋対談「味覚と視覚のポスト3.11-フランス語圏をフィールドにして」(11月20日、津田塾大学小平キャンパス)

津田塾大学多文化・国際協力学科設立記念対談 関口凉子×港千尋「味覚と視覚のポスト3.11-フランス語圏をフィールドにして」を木村朗子先生のお誘いで聴講しました。木村先生による一連の「震災後文学論」の実践者のことばのアーカイヴ化の試みでもあります。会場は津田塾大学小平キャンパス、津田梅子記念交流館内岡島記念チャペルです。記録をupします。

提題(1)港千尋
『風景論』で用いられた被災地の写真の紹介とコメント。
-廃墟の襖絵にキッチュで平和な水墨画風の田園風景が描かれている。震災以前以後の生活の対比を彷彿とさせる。
-被災地に残されたメッセージの更新。立て看板の文面の校正、メッセージの追加など、後から来た人が加えてゆく。
閖上の写真。生活の中で使われていた皿などがお供えに使われていたりする。現在はブルドーザーで整地され、風景が被災当時からは少しずつ変わってゆく。ここでも震災を風化させないための掲示板を来訪者が設置するケースがある。来訪者が写真や新聞の切り抜き貼ってゆくが、やがてなくなってまた更新される。
-飯館ミュージアム飯館村の典型的風景としてのポピーが咲いている野原の写真。
原子力発電経済から自立してアグリツーリズムに移行し、日本一美しい村百選に入った矢先に震災が起きた。印象派の風景をモデルに植生をつくろうとしたが、人がいなくなってかえってその美しさが引き立つという皮肉なことになった。
-『風景論』を編むさいに、避難者の家を訪問してインタビュ一の蓄積を行った。「一番大切なものはなんですか」という問いかけに、具体的なモノとインタビューを集めた展示を行う。全国を巡回、手弁当ベース。
大熊町に防護服を着て入り、被爆した木の幹の痕跡をこすりとる(木の幹に紙を貼ってフロッタージュ)するアートの試みも。岡部正男氏が現地のガイドに入った。被曝した森に生える茸を「とってはいけない」と言われつつ「これがうまいんだよ」と持って帰って行った姿が印象に深く残った。
-震災は全体としてはなかったことにされており、風化しているが、いまもまだ解決していない。どのようにしてアートにしてゆくかが今後も課題。
木村朗子(司会):このようなことをする機動力はアーティストの側に最初からあったのですか。
港:写真家は直後から現地に入って被災状況を撮影した。現代美術は方法論が違うのでまず議論を行った。「被災地に入って表現するのはおかしい」はアーティストとして自然な反応。ボランティアに入った人は多い。建築家・伊東豊雄氏の「みんなの家」のように、自分のメチエを使ってどのように震災救援に関わるかを問うた試みもある。
 
提題(2)関口凉子
P.O.L社から震災後にフランス語で上梓した著作の紹介。
震災当時はパリにいた。直後に日仏会館での会合のため、日本にフランス人の詩人を連れてゆくことになっていた。行きたがらない人もいた。
被災地に行かないとわからない情報、自分にとって入ってくる情報、ニュース、友人、フランス語だけで入ってくる情報の違いが毎日大きくなってくる
P.O.L社から刊行したCe n'est pas un hasard (2011), La Voix sombre (2015), Nagori(2018)は日々の思考を書いた本だが、翻訳者として、入ってくる情報をフランス語にして届けようとした。
震災後、いま起こっていることはわけがわからないのだが、吸収と把握を試みた。
過去の災害文学を読むことで、今書いていることがアーカイヴになるかもしれないと考えてクロニクル形式にした。後から読むと忘れているものも発見できる。
味について書くようになったのは震災の経験が大きかった。
この書物はいずれも散文作品。これまでは詩人としての活動をしていたので散文で書くのはほぼ初めて。むしろ散文で書くことを強いられたといってもよい。いままで書いていた詩の形式ではとりこめない内容だった。40過ぎて一から散文を書くことから始めた
木村:岡井さんとの往復詩集(岡井隆・関口凉子『注解するもの、翻訳するもの』(思潮社・2018))は「詩ではない言葉を選んだ」ということでしょうか。
(※岡井隆・関口凉子往復書簡として『現代詩手帖』に2013年から2014年にかけて掲載された連載の書籍化)
関口:詩ではないことばを選ばされたというべきか
味の話は、数えられないもので掬い上げられるものはなにかを問う話題。「亡霊食」について語っているが、作中で「放射能」という言葉は一度も使っていない。目に見えないものを食べなければならないということは人の生活をどれだけ平坦なものにするかを語りたかった。
「渋み」については、日本語とフランス語でどう違うかということかを描いていると思っていたが、じつは福島の柿へのオマージュだった。フランス文学にはTombeau といって個人の墓参になぞらえて死者に敬意を表する詩のジャンルがあるが、この作品はまさに柿詠で、柿のtombeauだった。
本を書くと同時に、ポンピドゥセンターで日本の歴史の影について語るイベントの一環として、「亡霊ディナー」を行った。失われてしまって数え上げることのできないものをどうして掬い上げてゆくかという課題の探求の一環。イベントは消えものだが何度も繰り返すことが大事。イベントは本にはならないがピンポイントでそこにいた人に意図は伝わる。
 
木村:著作へのリアクションについて。港さんの活動そのものについてはどうか。
港:発表は取材の1年後。「風景考」 サトシコヤマギャラリーでの展示とトーク
新聞の光景、キュレーターとの共同作業のなかで震災を直接扱っていないものも対象
とした。始めて1年後にウランバートルで展示された。関口さんの企画でパリでも展示、多和田葉子と鼎談を行った。
フランスでは定期的に活動していたのでそちらからの反応が多い。日本では活動する人が多かったので海外に開くことを心がけていた。
関口:その前は日本語とフランス語で描いていたが、ここからはフランス人に伝えてゆこうと決意。フランス人に伝わりやすいだけでなく、フランコフォンの人に伝わりやすい。『これは偶然ではない』(2011)は ギリシア語訳が出ている。ギリシア危機のときに出版社が国家のフラジリテに共感した。国家がこんなに弱いものだとは思わなかった、という感慨は、人ごとではないものとしてギリシア人にも読んでもらえるのでは、という意図があった。
「La Voix sombre」ではラジオの声と亡くなった人の声について書いた。ボイスメッセージに残った死者の声を聞くことも消すこともできないという内容。バタクラン劇場でのテロが書いた直後に起きた。身近な人の生死と搬送先がわからないとき、携帯電話をかけてそこにメッセージを残す、メッセージだけが残った電話を手にした家族のエピソードがあった。そこで意図せず読まれたものがある。
港:この本(『これは偶然ではない』フランス語版)を東京でいただいて読んだ翌日がバタクラン劇場のテロ事件だった。タイミングをよく覚えている。 
木村:カタストロフについて思考していると世界のどこかで重なることが起きている。偶然のようで偶然ではないのは、アンテナを張っていたら見えてきてしまう。
港さんの『風景論』に台湾のひまわり運動について言及した部分があるが、これについての本はその前に出してますよね(※『革命のつくり方』(インスクリプト・2014))。世界が変わるような予感をもった若者に響くところがある。冷戦の革命の若者(1989年ののちのスロバキア革命、ユーゴ内戦)についても書いておられるが、メッセージがその頃よりも強まっているように思うが。
港:その時は扱おうとしているメッセージが大きすぎた。過去が亡霊のように蘇り、何が起こっているかわからなくなる。100万人単位の群衆が動くのが革命。個と歴史くらい距離がある。
台湾の学生が国会議事堂を占拠したひまわり運動のときには、台湾の国会議事堂の中に入って学生と暮らしてインタビューもした。暑い。長期間。そのなかでどうやって生活を成り立たせてゆくか。その現実が浮かび上がる。日帝支配のときの気配も立法院のあたりにある。そういう話もする。学校が休校になったので国会議事堂のなかで自主ゼミ的に授業をしている(時間割が貼ってある)。最終的には学生が退去した。
同年にシールズと香港の雨傘運動。香港は強制排除されていまも裁判が続いている。
『革命のつくり方』は外国人が出したサンフラワームーブメントの本としてははじめての本。翌年に香港で繁体字版が出た。雨傘運動の映画「僕らの雨傘運動」(チャン・ジーウン《乱世備忘 僕らの雨傘運動》(2016・香港))。いまも当時の運動の当事者たちと交流がある。
木村:亡霊について。「届かない新聞」プロジェクトって何ですか。
港:震災遺産をどのように残すかを考えるために、浜中会津が分断されてしまったのでもう一度繋ぐプロジェクトの一つとして「届かない新聞」の展示を行った。
(「届かない新聞」プロジェクトで回収した2011年3月12, 13日付の福島民報をフロアに回覧)。浪江町で普段通り配達しに行ったが、人や家がない。配達員からその体験談を聞き取りして録音で残す(ものと声をセットで残すプロジェクト)。四月に行ってみたら新聞が積み上がっている。そのままにしたら放火されるので持ち帰る。住人不在で持ち帰る、などの経緯で回収された新聞を合わせて数千部保存している。
このような事実は報道されていないが、これが被災のディテールである。淡々とした話を蒐集する。
一度配達して持って帰ってきた新聞がここにあるということの手触り。ネットニュースで新聞を見ていると配達のリアリティが感じられないのではないか。
木村:このなかには亡くなった方に配達していた新聞もあるのでは。
港:配達員自身が新聞を積んだトラックごと流されたために、応援に入った人が届けていた新聞も読まれていないケースがある。
関口:「亡霊」にはいろいろなニュアンスをこめている。毎回同じ定義ではない。震災直後の本を書いたきっかけは、パリに残っていた日本人で集まって震災報道をみていると、死者の名前をキャスターが呼ぶ時、読み方に迷うことがあってはっとした。カタストロフによって名前が傷つく 。名前を呼んでもらえない。
たとえばフランス人が調子にのって被災地紀行自慢のパフォーマンスをするとき、そのなかで地名が間違っていることがある。この間違った地名は実際に存在しない地名なのだからこのカタストロフはおこらなかったと思ってしまう自分がいるし、名前がわからないので識別番号で呼ばれているご遺体があること自体が亡霊的。
食べ物と亡霊はどちらも消えもの。食べ物と人間の場合も、なにももたない人でもからだをもつ、名前を持つ、どこかから来ているものだけれど、名前が欠けているということが「亡霊」性につながる。
詩的なもの(霞、光、などの透明な食べ物、具象的な食物ではないシンボル)を食べるところからはじまって、名前をもたないもの、出自がわからないものは食べられないというところへ向かう。目に見えない放射能という亡霊的なものを食べることで自分も亡霊的になるというカタストロフがある。
木村:『名残の時間』(2018)では関口さんは俳句の季語の話をしていて、福島には巡る時間がない、と書いているが、港さんも短歌の話をしている。
7年経って、ジャーナリズムの言語から奪われた人間の詩的な言語に帰ってきてどう折り合いをつけるかという話ですよね。
関口:「なごり」の概念がフランス語にはない。円環的時間とリニアな時間の概念がそれぞれあるが、日本語は円環的時間に重点を置きすぎて歴史的な時間を軽んじすぎているのではないか。政治批判のデモや原爆や原発事故さえもまるで循環的時間や天災のように語られている。
木村:(関口さんがローマ賞をとって滞在していた)ヴィラメディチでの最後のディナーの話をしていて、二度と来ない時間と福島以後の不可逆な時間を重ねて悲しい気持ちを感じた。
関口:そこを接続するのは正しい読み方だと思う。
木村:震災の話をしていても、円環的な時間のなかでまたなにごともない季節がめぐってきて「花が咲く」に接続する脱力感がある。
関口:そこに取り込まれるという呆然とした気持ちがある。震災後。歳時記本が増えすぎる怖さがある。
港:幻想の平和な日本地図がすぐに立ち上がって規制をかける。ラジオとテレビがそれを提示。放射能が日本にとどまっていて海外に出て行くことがないかのような幻想を提示する。現実の国土や政治や自然環境をあたかも消しゴムで消すように無視する幻想の日本が生きている。
木村:ポンピドゥセンターの崇高展にでたイタリアの作家のインスタレーション(港さんにインタビューをとって製作)。ジャパンタイムズの地図では広域地図が出ているのに、日本語メディアでは福島以遠を映さない、まるで結界されているかのようだとコメントされた。
港:作家からインタビューの依頼を受けたので、当時の危険な場所をきちんと取材してほしいと指示を出した。
木村:人新世ということばで説明されているが、地球の何億年の歴史の中に取り込まれてしまったかのような感覚を提示している。
港 :「地層の中の私たち」に対してヨーロッパのアーティストは食い下がってきたが、これはanti-ruinだと説明した。飯館村のポピーは廃墟の光景とは呼べないのではないか、廃墟に変わる概念を示してほしいと提案した。
関口:震災の一年後、吉増剛造さんと港さんと福島に行ったとき、誰もとらない柿がたわわになっているのがとても印象に残っている。
港:相馬では、ボランティアのベースになっている農家がやっている民宿に泊まった。とてもコメがうまい。おお振りの季節はずれの梅干しが出てきたが、宿の人が「震災前のだから大丈夫、うちで漬けた最後の梅干し」と言う。とても印象的。
木村:人新世を理解するための新しい季節感を表す言葉を考えるフェーズに入ってきたのではないか。
 
質問1(津田塾・4年生)
季節感に頼りすぎているという表現が新鮮。メディアが発信している季節感はいったいだれが発信しているのか 日本のメディアだから独特だが、日本でも変だと思う人がいるのに作られるのはなぜか。
関口:文学の中で季節が強調されているのは悪いことではないが、それがもたらす負の部分(ある一定の季節感)がある。港さんの『風景論』でもでてくる、南北に長い国土の中で季語が統一されてしまうという不自然感がそれ。
港:24/72の季節の基準は中国・京都が基準なのにそのずれを解消しないポリティカルなうごきがぶきみ。沖縄歳時記も編まれているし、植民地の歳時記の掘り起こしが必要。
関口:これからどうしてゆかなければならないのか、どうしてこんなことになったのかを歴史的にリニアに考えなければならない時に、バランスの崩れたときによりかかるものとして円環的な変わらない季節感に頼るのがよくない。

質問2(千葉県・中学英語教員)
3・11の奥にあるものを知ることができた。学生にそういう世界を伝えなければならないと思う。制作者として大切にしている軸があればきかせてほしい
関口:私は作家である以前に翻訳家なので、現場に行かなければわからないことを伝えたり配達したりする。著作に対して「案内人としての作家」という書評がでたが、確かにそういう側面はあると思う。
港:一人であること(一人になって考えること)、一人でなければならないことがあるが、一人では行けない場所がある。
 
質問3:川上弘美(作家)
ポンピドゥセンターで亡霊ディナーにご一緒したご縁で来ました。季語に興味がある。季節が巡れば復興するという考え方にすごく疑問を感じる。
俳句の人たちはすべてのことを美しいおもしろい趣深いと作って考えなさいという思想にのっとって製作している。これは芭蕉、虚子の思想である。戦時詠から遠く離れて、戦後の俳人は美しいものとして季語を使ってきた。「翁に問う プルトニウムは花なるや」の句が印象にのこっている。
 
質問4 津田塾学生(映像に関心)
震災詠について。起こってしまった以上残るものしかなくて、革命とかに比べたら大きな変化に見えないが、動いてゆくものを書くことについてどう考えるか
 
港:iPhoneの普及は写真史上に記録されるべきもの。当事者が撮るようになった結果、写真家がわざわざ現地に行って撮る時代ではもはやなくなった。報道写真以外の写真が膨大な量、個人の携帯電話の中に眠っている。
写真の「マイニング」を行うことで、当事者の写真を発掘できる。震災前の被災地の写真をウェブ上にupしてもらうシステムを作り、そこに震災後の写真をupしてもらう。日常の記録は誰でもできる。写真家の役割が変わってくる。写真家の僕らは絶滅危惧種なのかという危惧がある。
事後的に撮影したり継続したりすることの意味は、ある人が継続してゆくということに意味がある。続ける人はそれほど多くないから。
 
以上です。
震災後これまで書いていたような方法では詩が書けなくなった、だからいままでの書法を一度まるごと放棄して、一から散文で書くようになった、という関口さんの思いに打たれます。岡井隆さんとの往復詩『注解するもの、翻訳するもの』には書けなくなって新たな書法を模索する時間の重みがひりひりと託されています。
震災後、私も書けなくなった経験があります。ことばが帰ってくるのを待っているうちに時間が経ってしまいました。そしてきっと書けなくなった方、予想以上に多いはずです。そのような方々の声をききたい。
また、リニアな時間にしたがって語らなければならないときに海に囲まれた幻想の島の円環的な時間のなかでカタストロフをなかったことにする心性がますます崩壊をよぶ、という指摘がとても重要です。日本では恐怖にうちのめされて泣く涙のことばや慰めの言葉や空元気の励ましの言葉でなければきいてもらえない状況、ありましたよね。それにしてもフランス語で書くと読んでもらえる/写真にすると言語を超えて共有されるという実感があるのは強い。発信方法を考えさせられます。