ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

現代詩手帖2018年6月号『月に吠えらんねえ』特集に寄稿しました(2) なかにし担当分への追い書き

おかげさまで現代詩手帖月に吠えらんねえ』特集がよく売れているようです。ありがとうございます。中学生のときからの詩手帖読者ですが、こんなにフィーバーしている詩手帖をリアルタイムで見るのは初めてです。
さて、人物解説なかにし担当分の追い書きです。
今回は単行本既刊分8巻までを参照して書きました。

西脇順三郎は本作では喫茶店のマスター(カフェJUNマスター)として登場します。綺麗なティーカップを並べた明るく清潔な喫茶店です。詩の話をしていてもうるさがられないカフェーなので□街住人の憩いの場になっています。
1945年以前の西脇順三郎作品(『Ambarvalia』と『超現実主義詩論』)のほか、新倉俊一先生による一連の西脇の評伝や伊藤勲先生の初期西脇研究からわかる西脇像を擬人化すると確かに洋行帰りの瀟洒な紳士になるでしょう。慶應の理財科(現在の経済学部)に籍をおきながらウォルター・ペイターとニーチェを耽読してラテン語で卒論を書いた文学青年西脇、慶應の文学部のファカルティメンバーになってから(古英語・中世英語を学ぶ使命を負って)洋行してリアルタイムのモダニズムに興奮した文学青年西脇のおもかげがあります。西脇先生のご実家が新潟・小千谷で名を馳せた銀行家だったことも、世を忍ぶ仮のすがたを喫茶店の店主とする本作のカフェJUNマスターの設定に効いているかもしれません。
ところでカフェJUNマスターの容貌が西脇先生ご本人より私の宗教学師匠に似ているように思えるのは気のせいでしょうか(東大人文社会系研究科ウェブサイトに掲載された師匠のエッセイを読むとたしかにそこはかとなくモダニズム詩人気質であるのも感じられます)。『月に吠えらんねえ』のにしわき先生は近代市思想街あたりにコーシャーレストランももっていらっしゃるのでは、と思わず想像を逞しくしてしまいました。宗教学関係ユダヤ学関係のみなさんはぜひ『月に吠えらんねえ』1巻をチェックしてみてください。

折口信夫釈迢空)が本作では「釈先生」としてすこぶる素敵に描かれています。BBC制作の探偵ドラマで主役を張りそうな名推理ぶりもさることながら、お弟子さんたちの回想からしのばれる名教師ぶりの反映も大いに感じられます。愛情と教育的配慮の深さと「日本の詩歌の根」と怨恨にそそぐ洞察の鋭さの描写などじつに惚れ惚れします。8巻刊行以後のアフタヌーン本誌連載分ではさらに釈先生の「日本の詩歌の根」にかける思いが明らかになっています。2018年7月号掲載の50話では「人を深く思ふ神ありてもしものいはば我の如けむ」の境地に達しています。ますます目が離せません。
折口信夫を前にするとなにか辛辣なことを言わずにはいられない柳田國男とのハードボイルドな師弟関係も、ごく短い場面ながら釈先生とヤナギタ先生の描写にしっかり反映されています。
はるみくんは春洋さんの遺稿集『鵠が音』収録作品そのものの温厚篤実なお人柄です。
釈先生はるみくん推しの読者のみなさんに細やかに深く愛されるゆえんです。たっちゃん(堀辰雄)と並ぶ好人物です。
本作のたっちゃんは詩誌『四季』を率いて先輩からも後輩からも信頼される文壇きっての良識人として描かれています。実に頼もしい。西洋文学のはかなげな部分を愛する蒲柳の質の高原療養文学の書き手という通念がみごとに覆されて爽快です。堀辰雄リルケもじつは骨太な詩人なのです、そうは思いませんか?という声が聞こえてきそう。

犀さん(室生犀星)の人柄はやはり飄々とあたたかくチャーミング。商業作家になって成功してはみたけれどもういちど詩心を取り戻したい、と戦争空間に鎮魂の旅に出る設定が卓抜です。どんなに殺伐とした場面でも彼が出てくると読んでいてほっとします。本作で犀さんの顔がない理由のひとつには現実のご本人が容貌を気にしていたこともあっただろうか、とずっと思っていましたがどうやらそうではないようです。作劇上の要請とのこと、ますます興味を惹かれます。8巻になって小説街で住民票を得た犀さんの顔がようやく描かれます。萩原朔太郎北原白秋を共通の師とする大親友であったはずの犀星が商業作家になることに複雑な思いを抱いていましたから、朔くん(萩原朔太郎)視点の□街の世界で犀さんの顔が見えない設定になっているのは非常に納得のゆくところです。小説街での犀さんの顔立ちはハートフルでバランスたしかな犀星作品にふさわしい容貌だと思います。今後の動向が見逃せません。

今回の寄稿にあたって、三島由紀夫の晩年の作品と川端康成との往復書簡や、芥川龍之介キリシタンもの王朝ものを再読しました。
文壇の大御所になっても文章の世界では永遠に若く「美しい日本の私」でありたい川端康成とその作品のイメージも、美に殉じようとして生活そのものが演技となる晩年の三島由紀夫のたたずまいそのものも本作ではみごとにキャラクター化されています。「近代ゴリラ」の楯の会の軍装と舞台化粧風のノーズシャドウと目張りでもうこの人デンジャラスな人だなって一目でわかります。
作中の龍くんは芥川作品のあの怜悧で端正でほのかにセンシュアルな文体そのもののキャラクターです。BBCシャーロックのアイリーン・アドラーのことばを借りれば「頭脳明晰ってセクシー」。霊体なだけに作中世界の時間構造や時空のゆがみへの洞察もひとなみはずれて鋭いのです。朔くん相手にこぼす「小説家の世界は陰険だ、学者の世界はもっと陰険なんだろう、僕は詩の世界が良い」のことばに思わずうなずいてしまいます。詩人気質と秀才気質のあいだで葛藤しつつもときどきお茶目な一面を見せるところなどじつに味わいぶかいです。龍くん頭脳明晰でセクシーですね、って言ったら、頭脳明晰がセクシーなら□街の謎をほどくためにけふこ君もいっしょに考えなさい!脳みそを全回転させて考えなさい!って言われそうです。なお、本作では河童はいまのところでてきません。

車掌さん/ケンジ(宮澤賢治)のプロファイリングは腕のみせどころでした。
なんといっても私にとっては母方の郷土の偉人・賢治先生です。小中学生の頃、一関で高校の国語教師をしていた伯母につれられてよく夏休みに賢治・啄木・光太郎史跡詣でをしたものです。やはりサイエンティストでもあった農村改良運動家としての印象が私には強く残っています。
本作の車掌さんは「狸の車掌を着た過去の□街の神さま」です。チューヤくん(中原中也)の後に「□街の神さま」になったケンジは何らかの理由で「神さま」を降り、いまは主人公の朔くん(萩原朔太郎)が持て余し気味に「神さま」を引きうけていることがわかります。
ここで想起されるのは戦後詩史のなかの詩の理想像の変遷と中原中也宮澤賢治萩原朔太郎への回顧です。無垢で無頼な青春詩の範型。人知れず宇宙的なスケールの詩を書き明るい未来を幻視する農村の聖者。すべての実験が尽きてしまった後に召喚される誰よりもラディカルな「現代詩の母」。三人ともいずれも戦争詩との距離のある人々です。どんなに生前人気のあった名匠でも、ひとたび戦争詩に職人芸を発揮してしまった人は「神さま」にはなれない。白さん(北原白秋)やミヨシくん(三好達治)やコタローくん(高村光太郎)も、最晩年に日本浪漫派に傾倒したミッチーくん(立原道造)も「神さま」にはなれないのです。□街の外にいる不特定多数の読者による詩と詩人の理想像が「神さま」の人選に反映されているであろうことは容易に想起できます。
(50話での釈先生による「□街の神さま」選出機構の解釈を見る限りでは、「不特定多数の読者による詩と詩人の理想像」とは言い切れないようです。今後の動向がますます気になります)
朔くんが遭遇する過去の□街での「農村の詩の聖者」ケンジの描写には、1990年代から2000年代前半くらいのファンシーなスピリチュアル系賢治受容とその観光的商業的利用への鋭い批評が反映されています。思わず唸りました。過去の□街では、詩人たちは見るからにファンシーでキッチュな意匠の動物のかぶりものをかぶり、聖者とともに無記名の痛みなき優しさと癒しの歌をともに歌っています(動物のかぶりもののタッチが作中で朔くんやミヨシくんや白さんにつきまとうワナビー詩人の涼貴乃我有さんの作画に似ているのもツボ)。そんな詩人たちの姿を見たケンジは「こんなはずではなかった。私の宇宙意識はこんなものをめざしてはいない」と衝撃を受け、朔くんは「これは地獄だ」と呟きます。宮澤賢治のいう「ほんとうのしあわせ」はここにはないのです。
この場面の「宗教性」の描写は、日本語現代詩史における「宗教的な詩」「形而上詩」の受容をめぐる困難のかたちを明確に切り取っています。清家さんうまい。またも唸ってしまいます。人知れず森羅万象につらなる詩を書いた詩人を必要以上に聖者視するのも、詩人たちに無名性匿名性に殉じて誰もが安心する無憂の無痛世界の歌を歌えと強いるのも、やはり大量動員の詩学へのじゅうぶんな反省を欠く土壌に現れる現象であるでしょう。Not religious, but spiritualを標榜する読者に対しても、詩歌のなかにあらゆるかたちの「聖性」を見出してあたかも現代の祈りの歌であるかのように思いなすよう勧める「趣味の審判者」もこの困難からは自由ではないでしょう。
近代岩手の貧しさと困難につらなる現在を「イーハトーヴ」の名のもとに優しくやわらかく覆う観光戦略と、ひたすらに柔和な聖者のような賢治像を理想化する『賢治の学校』的なものにいわくいいがたい思いを抱えるみなさんも必見です。東日本大震災以後の癒しと涙の詩に疑問を覚えるみなさんも必見です。
「□街の神さま」を降りたケンジは『銀河鉄道999』の車掌さん風の制服を着て近代市の諸街区を結ぶ環状鉄道に添乗するたぬきになるのですが、この造型がやはり卓抜です。外界への脱出方法をどうやら彼は知っているらしい。熱く危険でラディカルな世直しへの思いを透明な幻想の宇宙誌と郷土誌につつみ、動植物寓話のかぶりものをかぶって韜晦する賢治の作品世界がみごとに反映されています。

「神さま」システムと近代市の時間構造、犀さんの顔、釈先生とはるみくん。清家雪子さんの前作『まじめな時間』にでてくる怨霊によく似た黒々としたなにか(縊死体でも「ひのもと」の弟たちでもあるなにか)。これらについてはぜひそのうちしっかり論じたいです。交通事故で亡くなった女子高校生を主人公に、成仏まえの霊体のいる中間的な他界を描いた『まじめな時間』もとてもおもしろいですよ!

月に吠えらんねえ』公式アカウントでの清家雪子さんからの現代詩手帖月に吠えらんねえ』特集へのメッセージはこちらです。細やかなお気遣いありがとうございます。詩についての散文を書いても漢字名前で言及されることが多かったきょうこのごろ、ひらがななまえで言及いただいたのはほんとうに久しぶりです。とても嬉しいです。
(清家さんは日本史専攻から創作活動に転じられたとのこと、そこはかとなく親近感を抱いております)
今後の展開がとても楽しみです。ますます心して拝読してまいります。

とても一冊では論じきれないお話ですし、アフタヌーン本誌でもどんどん物語が動いているようですので、特集第二弾があればとても嬉しいです。
https://twitter.com/hoerannee/status/1000753851396337664https://twitter.com/hoerannee/status/1000753851396337664