ホッキョクウサギ日誌

なかにしけふこのブログ。宗教学と詩歌文藝評論と音楽と舞台と展示の話など。

震災後文学:いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社、2013)

津田塾でご一緒している木村朗子先生のお誘いで、3月19日に物語研究会のミニシンポジウム「災厄と物語」で登壇します。
私は宗教学徒で西洋古典学と詩歌の実作にも関わる者の立場から「橋を架ける学問と詩」について提題しますが、いまさらながら「震災後文学」の主要作品に目を通しております。

ようやくいとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社・2013)を読みました。
紙版とKindle版があります。

amzn.to

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私は荻窪に最近できた書店 Titleで文庫版を入手しました。
Titleは中央線カルチャーのよそ者や若者にも開かれた軽妙な部分と読書界のトレンドを意識した興味深い選書を行っている書店です。一見の価値はあります。

www.title-books.com


『想像ラジオ』の語り口は軽妙です。読者を選ぶかもしれません。
とはいえこの語り口で語られなければならなかったことのわかる作品です。
傑作です。
津波に襲われた被災地の樹木の上、DJになりきって魂振りする語り手。
都会的なFM放送や深夜放送の親密性を想起させる軽妙な口調に、鎮魂への思いがにじみます。
語り手は、津波の襲った生まれ故郷と実家の家族のルーツを、そして思うにまかせぬ人生を振り返り、妻子に思いをはせます。語り手のDJは心から聞き手の心に語りかける「想像ラジオ」となり、その声に魂で呼応するリスナーたちの存在が語り手を支えます。復興ボランティアのなかにもその声を聴く人がいる。
しかし、語り手には妻の声だけが聞こえない。彼は妻の不貞を疑っては疑心暗鬼にもなります。妻の声が聴きたい。息子の声が聴きたい。その願いを語る場面に哀愁と死の予感の影がさします。この場面以降の語り口の転調、そして妻と子供の声をようやく聴きとげて「放送」を終える幕切れまでのスピード感はさすがの手練れです。名作です。

『想像ラジオ』を音読すると、語りの文藝のことばを声にのせる快さを感じます。まさにたまふり文体でもあります。声に出して唱えること、語ることがたまふりにもなり、たましづめにもなる。語り手の身の上の思うにまかせぬよるべなさと話題の深刻さがあのユーモアと哀愁のにじむDJがたり文体で和らぎます。
ここはぜひシェイクスピアを得意とする俳優によるリーディング公演で聴いてみたいです。
横田栄司さんとか横田栄司さんとか横田栄司さんとかどうですか。
あの立派な台詞回しと渋いハイバリトンの声での朗読をぜひ聴いてみたい。

災厄の話題を詩歌で語るとともすると悲愴に傾いてユーモアが欠けがちになります。
特に現代詩はそうでしょう。
もしかすると日本語では語り物口調によるたまふりが悲惨すぎて笑うしかない状況を語るのに効果的なのかもしれません。そんなことも思いださせてくれる作品です。
エミール・クストリッツァが旧ユーゴのあまりに暴力的な悲惨の歴史をバルカンブラス響く寓話的世界に託して語ったことも思い出されます。

3.11以後の散文作品では、わたくし的には『想像ラジオ』と多和田葉子さんの『献灯使』が双璧です(Kindle版も出ました。リンクから行ってみてください)。
『想像ラジオ』は現代のたまふりとたましづめを軽妙な口調で語ります。
『献灯使』はもしかしてあるかもしれないけれど今は見たくないディストピア、未来の閉ざされた東京の物質的精神的衰微を生きるか弱い子供たちと死ぬに死ねない老人達たちの対比を描いて息づまるようです。
翻訳書ならだんぜんエルフリーデ・イェリネク『光のない。』を推します。
遠いところにいるからこそ、私たちの哀しみとともにそっとたたずむ悲劇を語って悼むひとがいる。Festival Tokyoで見た地点の《光のない。》の舞台とPort Bの《光のない。2》のオリエンテーリング型舞台は凍り付いた心を静かな涙とともに溶かしてくれるようでした。

やはり抒情と叙事の双方で詩的想像力に働きかけるもの、音読して声がよろこぶ文体があるもの、うすうす誰もが感じていてもあえて言語化しないできた思いもよらぬ視点を開くものがある作品が好みです。

「震災後文学」にかんして、歴史学徒・宗教学徒としては、さまざまな書き手がさまざまな証言を残してくださればテクスト分析の対象になる史料が増えて嬉しいところですが、実作者としては、ではおまえはなにをしてきたか、おまえはなにをするつもりか、と問われているような心地がします。問いに応えてこれから書こう、語ろう、と心をふるいたたせてくれる作品や批評は貴重な存在であると思います。(随時続く)